本記事は『隋書』巻八十一・列伝第四十六「東夷」にある「俀国(倭国)」条と、末尾の「史臣曰」を扱います。
確実に言えるのは、地理(百済・新羅の東南/水陸三千里)、都(邪靡堆=「魏志」の邪馬臺?)、そして遣隋使に関する叙述(大業三年・裴清の行程・国書の一節)が本文として並んでいる点です。
一方で、距離や行程の具体性、固有名(邪靡堆・多利思比孤など)の字形、そして「史臣曰」が“本文の描写”ではなく“史官の論評”である点は、読みを分けて整理する必要があります。
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原文
本文(A:位置・都・卑彌呼まで)
俀國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
『隋書』巻81 列伝第46「東夷」 俀国(倭国)条
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王
夷人不知里數 但計以日
其國境 東西五月行 南北三月行 各至於海
其地勢 東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡 並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近
漢光武時 遣使入朝 自稱大夫
安帝時 又遣使朝貢 謂之俀奴國
桓靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歷年無主
有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王
有男弟佐卑彌理國
其王有侍婢千人 罕有見其面者 唯有男子二人 給王飲食 通傳言語
其王有宮室樓觀 城柵皆持兵守衛 爲法甚嚴
自魏至于齊梁 代與中國相通
本文(B:開皇二十年・官制と服飾)
開皇二十年 俀王姓阿每 字多利思比孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕
『隋書』巻81 列伝第46「東夷」 俀国(倭国)条
上令所司訪其風俗
使者言 俀王以天爲兄 以日爲弟
天未明時出聽政 跏趺坐
日出便停理務 云委我弟
高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
王妻號雞彌 後宮有女六七百人
名太子爲利歌彌多弗利
無城郭
內官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數
有軍尼一百二十人 猶中國牧宰
八十戶置一伊尼翼 如今里長也
十伊尼翼屬一軍尼
其服飾 男子衣裙襦 其袖微小
履如屨形 漆其上 繫之於腳
人庶多跣足
不得用金銀爲飾
故時衣橫幅 結束相連而無縫
頭亦無冠 但垂髮於兩耳上
至隋 其王始制冠 以錦綵爲之 以金銀鏤花爲飾
婦人束髮於後 亦衣裙襦 裳皆有襈
攕竹爲梳 編草爲薦 雜皮爲表 緣以文皮
有弓矢刀矟弩䂎斧 漆皮爲甲 骨爲矢鏑
雖有兵 無征戰
其王朝會 必陳設儀仗 奏其國樂
戶可十萬
本文(C:法・風俗・信仰など)
其俗 殺人強盜及姦皆死
『隋書』巻81 列伝第46「東夷」 俀国(倭国)条
盜者計贓酬物 無財者沒身爲奴
自餘輕重 或流或杖
每訊究獄訟 不承引者 以木壓膝
或張強弓 以弦鋸其項
或置小石於沸湯中 令所競者探之 云理曲者即手爛
或置蛇甕中 令取之 云曲者即螫手矣
人頗恬靜 罕爭訟 少盜賊
樂有五弦琴笛
男女多黥臂點面文身 沒水捕魚
無文字 唯刻木結繩
敬佛法 於百濟求得佛經 始有文字
知卜筮 尤信巫覡
每至正月一日 必射戲飲酒 其餘節略與華同
好棋博握槊樗蒲之戲
氣候溫暖 草木冬青 土地膏腴 水多陸少
以小環挂鸕鷀項 令入水捕魚 日得百餘頭
俗無盤俎 藉以檞葉 食用手餔之
性質直 有雅風
女多男少 婚嫁不取同姓 男女相悅者即爲婚
婦入夫家 必先跨犬 乃與夫相見
婦人不淫妒
死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服
貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞
及葬 置屍船上 陸地牽之 或以小輿
有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以爲異 因行禱祭
有如意寶珠 其色青 大如雞卵 夜則有光 云魚眼精也
新羅百濟皆以俀爲大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來
本文(D:大業三年・遣隋使と裴清)
大業三年 其王多利思比孤遣使朝貢
『隋書』巻81 列伝第46「東夷」 俀国(倭国)条
使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法
其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙 云云
帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞
明年 上遣文林郎裴清使於倭國
度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國
經都斯麻國 迥在大海中
又東至一支國 又至竹斯國
又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷洲 疑不能明也
又經十餘國 達於海岸
自竹斯國以東 皆附庸於倭
倭王遣小德阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
後十日 又遣大禮哥多毗 從二百餘騎郊勞
旣至彼都 其王與清相見 大悅
曰 我聞海西有大隋 禮義之國 故遣朝貢
我夷人 僻在海隅 不聞禮義 是以稽留境內 不即相見
今故清道飾館 以待大使 冀聞大國惟新之化
清答曰 皇帝德並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人來此宣諭
旣而引清就館
其後清遣人謂其王曰 朝命旣達 請即戒塗
於是設宴享以遣清 復令使者隨清來貢方物
此後遂絕
史臣曰(史官の論評)
史臣曰
『隋書』巻81 列伝第46「東夷」 俀国(倭国)条
廣谷大川異制 人生其間異俗 嗜欲不同 言語不通
聖人因時設教 所以達其志而通其俗也
九夷所居 與中夏懸隔 然天性柔順 無獷暴之風
雖綿邈山海 而易以道御
夏殷之代 時或來王
暨箕子避地朝鮮 始有八條之禁 疏而不漏 簡而可久 化之所感 千載不絕
今遼東諸國 或衣服參冠冕之容 或飲食有俎豆之器
好尚經術 愛樂文史 遊學於京都者 往來繼路 或亡沒不歸
非先哲之遺風 其孰能致於斯也
故孔子曰 言忠信 行篤敬 雖蠻貊之邦行矣
誠哉斯言
其俗之可採者 豈徒楛矢之貢而已乎
自高祖撫有周餘 惠此中國
開皇之末 方事遼左 天時不利 師遂無功
二代承基 志包宇宙 頻踐三韓之域 屢發千鈞之弩
小國懼亡 敢同困獸 兵連不戢 四海騷然
遂以土崩 喪身滅國
兵志有之曰 務廣德者昌 務廣地者亡
然遼東之地 不列於郡縣久矣
諸國朝正奉貢 無闕於歲時
二代震而矜之 以爲人莫若己 不能懷以文德 遽動干戈
內恃富強 外思廣地 以驕取怨 以怒興師
若此而不亡 自古未之聞也
然則四夷之戒 安可不深念哉
現代語訳(試訳)
本現代語訳は、語義・文脈にもとづく試訳です。
語句の切り方や含意には複数の読みがあり得るため、特定説に寄せないよう配慮しています(既存訳の転載・準転載ではありません)。
試訳(A:位置・都・卑彌呼まで)
俀国(倭国)は百済(百濟)と新羅(新羅)の東南にあり、水陸で三千里、海の中で山や島に寄って住む。
魏の時代、中国と通訳を介して通じた国が三十余りあり、いずれも自ら王を称したという。彼らは里数を用いず、日数で距離を数える。
国の境界は東西に五か月行、南北に三か月行で、それぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。都は邪靡堆に置かれており、これは『魏志』が邪馬臺と呼ぶものだ、と本文は説明する。
古い伝えでは、楽浪郡の境および帯方郡からいずれも一万二千里で、会稽の東、儋耳に近いとも言われる。
後漢の光武帝の時に使者が入朝して大夫を称し、安帝の時にも朝貢し、俀奴国と呼ばれた。桓帝・霊帝のころ国は大いに乱れて攻め合い、長年主がいなかったが、卑彌呼という女が鬼道で衆を惑わし、人々は共に立てて王とした。男弟が卑彌呼を補佐して国を治めた。王には侍婢が千人いて、顔を見る者は稀で、男二人が飲食を給し言葉を取り次いだ。宮室や楼観、城柵は兵で守られ、法は厳しかった。魏から斉・梁に至るまで、代々中国と通じたという。
試訳(B:開皇二十年・官制と服飾)
開皇二十年、俀王は姓を阿每、字を多利思比孤、号を阿輩雞彌といい、使者を派遣して朝廷に来た。皇帝は担当官に命じて、その風俗を尋ねさせた。
使者の言うところでは、俀王は天を兄とし、日を弟とする。夜明け前に出て政務を聴き、跏趺(あぐらに似た座り方)で座る。日が出ると事務を止め、「弟に委ねる」と言う。高祖(文帝)は「これはあまりに義理がない」として、改めるよう諭したという。
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六、七百人いた。太子の名は利歌彌多弗利。城郭はない。内官の等級は十二あり、大德・小德・大仁・小仁・大義・小義・大禮・小禮・大智・小智・大信・小信と続くが、員数は一定しない。軍尼が百二十人おり、中国でいう牧宰に似る。八十戸に一人、伊尼翼を置き、今の里長のようなものだという。十の伊尼翼が一つの軍尼に属する。
服飾は、男子は裙襦(上下に分かれた衣)を着て、袖はやや小さい。履は靴の形に似て上を漆で塗り、足に結びつける。庶民は裸足が多い。金銀を飾りに用いることはできない。古い時代は、横幅の布を結んでつなげるだけで縫い目がなかった。頭に冠はなく、髪を両耳の上に垂らすだけだった。隋代になると王が初めて冠を作り、錦綵で作って金銀の透かし彫りで飾った。婦人は髪を後ろで束ね、同じく裙襦を着る。裳には襈(縁飾り)がある。竹で梳を作り、草で敷物を編み、獣皮を表にして文様の皮で縁取る。弓矢・刀・矟・弩・䂎・斧があり、漆塗りの革を甲にし、骨を矢鏑にする。兵はあっても遠征や戦争はしないという。王の朝会では必ず儀仗を並べ、国楽を奏する。戸数は十万ほどと書かれている。
試訳(C:法・風俗・信仰など)
風俗として、殺人・強盗・姦(不義)は死刑である。盗みは盗品の価値を計って償わせ、財がなければ身を没して奴となる。それ以外は罪の軽重により、流罪または杖刑となる。
裁判で自白しない者には、木で膝を圧したり、強弓を張って弦で首を鋸(のこぎり)のように擦ったりする。沸騰した湯に小石を入れ、争う者に探らせ「理が曲がっている者は手が爛れる」と言う。蛇を入れた甕に手を入れさせ「曲がっている者は手を噛まれる」と言う、ともある。
人々はおだやかで、争訟は少なく、盗賊も少ない。楽器は五弦の琴や笛がある。男女とも腕に黥(いれずみ)をし、顔に点を打ち、文身して水に潜って魚を捕る。文字はなく、木に刻み結縄するだけだという。仏法を敬い、百済から仏経を求めて、そこで初めて文字があるようになった。卜筮を知り、巫覡(シャーマン)をとくに信じる。正月一日には必ず射の遊戯をして酒を飲み、その他の節はおおむね中国と同じだとする。棋博・握槊・樗蒲などの遊びを好む。
気候は温暖で草木は冬も青く、土地は肥え、水が多く陸が少ない。鸕鷀(う)に小さな環を首に掛けて潜らせ、魚を捕らせると、一日に百余り得るという。盤や俎はなく、檞葉(かしわ・かしに類する葉)を敷き、手で食べる。性質は率直で雅風がある、とも書かれている。
女が多く男が少ない。婚嫁は同姓を避け、男女が悦び合えば婚となる。婦が夫家に入るとき、まず犬を跨いでから夫に会うという。婦人は淫らでも嫉妬深くもない。死者は棺槨に収め、親族や賓客は屍のそばで歌舞し、妻子・兄弟は白布の服を作って着る。貴人は三年、殯(もがり)のように外に置き、庶人は日を占って葬る。葬る際は屍を船に置き、陸で引いたり、小輿のようなもので運ぶ。
阿蘇山があり、その石は理由なく火を噴き天に届くことがあるので、異とみて祈り祭る。青く鶏卵ほどの如意宝珠があり、夜に光る。魚の眼の精だという。新羅・百済はいずれも俀(倭)を大国として珍物が多いとし、敬仰して、常に使者を往来させたと記す。
試訳(D:大業三年・遣隋使と裴清)
大業三年、王の多利思比孤が使者を遣わして朝貢した。使者は「海西の菩薩天子が仏法を重興すると聞いたので朝拝のために来た。僧も数十人連れてきて仏法を学ばせたい」と言ったという。
国書には「日出処の天子が、日没処の天子に書を致す。無恙(つつがなき)や」云々とあった。皇帝はこれを見て不快とし、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼があるものは、以後知らせるな」と言った。
翌年、文林郎の裴清を倭国に遣わした。百済を経て竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国を通る。これは大海の中に離れてあるという。さらに東へ一支国、さらに竹斯国へ行き、また東へ秦王国に至る。その人々は華夏に同じで、夷洲だろうとしているが、確かなことは言いにくい、と述べる。さらに十余国を経て海岸に達し、竹斯国より東はみな倭に附庸すると記す。
倭王は小德の阿輩臺を数百人に従わせ、儀仗を整え鼓角を鳴らして迎えさせた。十日後には大禮の哥多毗を二百余騎に従わせて郊外でねぎらった。都に至ると王は裴清に会って大いに喜び、「海西に大隋という礼義の国があると聞いたので朝貢した。私は夷人で海隅に偏し、礼義を聞かないため、境内に留まってすぐに会わなかった。いま道を清め館を飾って大使を待ち、大国の新しい教化を聞きたい」と言った。裴清は「皇帝の徳は天地に並び、恩沢は四海に流れる。王が教化に慕うので、使者を遣わしてここに宣諭させた」と答え、館に入った。その後、裴清が人を遣わして「朝命はすでに伝えた。すぐに旅装を整えてほしい」と告げたので、宴を設けて裴清を送り、さらに使者を裴清に随わせて方物を献じた。これ以後、(往来は)絶えたと結ぶ。
試訳(史臣曰:史官の論評)
史臣は言う。広い谷や大川にはそれぞれ制度があり、そこに生きる人々にはそれぞれの習俗がある。嗜欲は同じではなく、言語も通じない。だから聖人は時に応じて教えを設け、その志を達し、その俗を通じさせるのだ。
九夷の住むところは中夏と隔たるが、性質は柔順で荒々しい風がない。山海を隔てて遠くても、道によって治めやすい。夏・殷の時代には、来て王に拝することもあった。箕子が朝鮮に避けて八条の禁を立てて以来、疎にして漏れず、簡にして久しく、教化の及ぶところは千載絶えない。
いま遼東の諸国には、衣服が冠冕に参じる容を備える者もおり、飲食に俎豆の器を用いる者もいる。経術を好み、文史を愛し、都に遊学する者が往来して道に継ぎ、あるいは客死して帰らぬ者もいる。先哲の遺風でなければ、どうしてここまで至るだろうか。孔子が「言は忠信、行ひは篤敬ならば、蛮貊の邦といえども行はれる」と言ったが、まことにその通りだ。採るべき風俗は、ただ楛矢の貢に限られない。
高祖が中国を撫有してから、開皇の末には遼左を事としたが、天時が利せず軍は功なく終わった。二代目は基を承け、志は宇宙を包み、しばしば三韓の域を踏み、大いなる弩を発した。小国は滅亡を恐れ、困獣のようにあえて抗い、戦が連なってやまず、四海は騒然となり、ついに土崩して身を喪い国を滅ぼした。兵志には「徳を広める者は昌え、地を広げる者は亡ぶ」とある。遼東は久しく郡県に列しておらず、諸国は歳時に欠けず朝正し奉貢してきたのに、二代目はそれを震えて誇り、己に及ぶ者はないと思って文徳で懐けることができず、軽々しく干戈を動かした。内に富強を恃み、外に広地を思い、驕りで怨みを招き、怒りで師を興した。このようで滅びない例は古来聞かない。だから四夷の戒めは、深く念じないわけにはいかないのだ。
史料解説
事実(本文から言えること)
本文は、俀国(倭国)の位置を「百済・新羅の東南」「水陸三千里」「海中の山島に依る」として示し、距離の数え方(里ではなく日数)にも触れています。都は邪靡堆にあるとし、それが「魏志」でいう邪馬臺だ、と同一視する説明が本文中に含まれます。
また、後漢(光武・安帝)から桓霊期の乱と卑彌呼の擁立、そして「魏から斉・梁まで中国と通じた」という概略が並びます。ここは、細部の確定よりも“史書がどう要約しているか”がまず確認対象になります。
隋代の記事としては、開皇二十年の来朝(王名・官制・服飾)と、大業三年の来朝(国書の一節、裴清の派遣、行程と迎接の描写)が柱です。いわゆる「日出処天子…」はこの枠内で提示され、皇帝の不快反応も併記されます。
末尾の「史臣曰」は、俀国(倭国)の描写そのものというより、東夷一般・遼東・対外政策をめぐる史官の論評で、本文の情報層とは役割が異なります。
読みの分岐点(どこで解釈が割れるか)
「邪靡堆=邪馬臺」の書き方は、地名の同定を“本文の説明”として読むのか、“編者が他書を引いて補足した注記”として読むのかで、同一視の重みが変わります(同一視そのものを否定するのではなく、文中での位置づけが分岐します)。
距離表現(「水陸三千里」「一万二千里」)は、実測に近い数値として扱うのか、伝聞的な目安として幅を残すのかで読みが分かれます。とくに「古云」と置かれた部分は、本文内でも“伝え”として提示されています。
裴清の行程に出る島名・国名(竹島・都斯麻国・一支国・竹斯国・秦王国など)は、どこまでを航路記録として直に読むか、どこからを概括・伝聞・類推(「夷洲」「疑不能明」)として距離を取るかが分岐点です。
「史臣曰」は、俀国(倭国)の評価というより、文明化と武力拡張への戒めを語る論説として読めますが、どこまでを“事実の補足”とみなし、どこからを“理念の主張”として切り離すかで、受け取り方が変わります。
注意点
本ページは原文確認のために句読点を外しています。句切れが見えにくい箇所は、改行(と全角スペース)で“切れ目の候補”を示すに留め、断定的な読み下しにはしません。
用字には揺れがありえます。たとえば王名の字形(多利思比孤/多利思北孤)、国号(俀国/倭国)、婚姻儀礼の一語(跨犬/跨火)などは、底本・系統差や転写差が生じやすいポイントです。本文理解に直結するところは、まず「何が書かれているか」を押さえ、字形の確定は別途扱うのが安全です。
「史臣曰」は本文の叙述と混ぜない方が誤読が減ります。本文(東夷の地理・風俗・往来)と、史臣曰(史官の論評)を層として分けて読む前提を維持してください。
論点メモ
- 「邪靡堆=邪馬臺」:同一視の“位置づけ”(本文説明か補足か)を見誤ると、断定の強さが変わります。
- 距離の扱い:三千里・一万二千里を実数に近い情報として読むか、目安として幅を残すかが分岐点です。
- 裴清の行程:島名・国名の列挙を航路記録としてどこまで採るか(「疑不能明」の扱い)。
- 史臣曰:本文の情報と論評を混在させず、“層”を分けて読むことが重要です。
出典
- 維基文庫
-
- ページ名:『隋書』巻81・列伝第46「東夷」倭国(俀国)条
- URL:https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%9A%8B%E6%9B%B8/%E5%8D%B781
- 用途:史臣曰 の文言・所在確認
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- Chinese Text Project(中國哲學書電子化計劃)
-
- ページ名:《卷八十一列傳第四十六 東夷》
- URL:https://ctext.org/wiki.pl?chapter=584840&if=gb
- 用途:同章段(《倭國》節)の文言確認(用字差・段落位置の手がかり)
- 閲覧日:2026-01-31(JST)


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