難升米(なしめ)という大物使者の陰に隠れ、副使として魏への朝貢に同行した謎の人物「都巿牛利」。
その正体は一体何者なのでしょうか?
記録は少ないながらも、魏の皇帝から「率善校尉(そつぜんこうい)」という官位と銀印を授けられたこの人物について、実は「漢字の読み違い」という思わぬミステリーが隠されています。
複数の正体説とともに、史料からその姿を検討してみましょう。
- 難升米を支えたナンバー2
景初二年(238年)に魏へ派遣された副使であり、皇帝から直接役職と銀印を授かった重要人物。 - 「巿(ふ)」と「市(し)」のトラップ
文字の形が酷似しているため、「つしごり」か「つふごり」か、現在も読み方が確定していない。 - 「牛利」が本名とする説が有力
史料の途中から「牛利」と略されているため、「都巿」は役職名であり、名前は「牛利」であるとする説が最も合理的とされている。
最大の謎:「都巿牛利」の読み方と漢字トラップ
「都巿牛利」が何者かを探る前に、まずはそもそも「使われている漢字は何なのか」を特定する必要があります。
「巿(ひざかけ)」か「市(いち)」か
非常に分かりにくいのですが、「巿」と「市」は全く違う漢字です。
- 巿:「ふ、ふつ、ほち、ひざかけ」と読む。上の横棒が突き抜けている。
- 市:「し、いち」と読む。上の横棒が突き抜けていない(なべぶた)。
日本語のフォントでは、ほとんど見た目で区別できないほど似ていることが多くあります。
そもそも「巿(ひざかけ)」という字は日常でほぼ使用されないため、無意識に「市(いち)」と誤読・誤用されやすい傾向があります。
中国語フォント(Microsoft Yaheiなど)で表示すると分かりやすく、両者は下図のような違いになります。

読み方は「つしごり」か「つふごり」か
この1文字が違うだけで、人名の発音(中国語の音韻)が大きく変わってしまいます。
一般的には「つしごり」と読まれることが多いですが、字が違う場合は「つふごり」と読むことになります。
上古音:tag-dhi∂g-ngIog-lIed
中古音:to-zIei-ngI∂u-lIi
現代中国語:Dūshì niú lì(ドゥーシー ニウ リー)
「都市(し)牛利」は現代中国語では以下のように発音されます。
「都巿(ふ)牛利」は現代中国語では以下のように発音されます。
音韻(ふ):Dōu fú niú lì
魏志倭人伝による記録(事実)
『魏志倭人伝』には、都巿牛利について以下のように記述されています。
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝献。(中略)帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利(中略)今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見労賜遣還。(後略)
『三国志』巻30 魏書 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
【現代語訳の要約】
景初二年(238年)6月、卑弥呼は難升米らを派遣した。魏の皇帝は「大夫の難升米と、次使(副使)の都巿牛利が遠い道のりをよく来た。難升米を率善中郎将に、牛利を率善校尉(そつぜんこうい)に任じ、銀印と青い組み紐を与えて帰国させる」と詔書を下した。

都巿牛利は何者か?(4つの仮説)
魏志倭人伝における登場回数が少ないため定説はありませんが、現在までに以下のような仮説が提唱されています。
1. 「役職名+牛利」説(最も有力)
魏志倭人伝では、初めだけ「次使 都巿牛利」と書き、その後はすべて「牛利」と略して呼んでいます。
直前に「大夫(役職) 難升米(名前)」と書かれている法則に従い、「次使都巿(役職) 牛利(名前)」と解釈する説です。
史料の文脈と最も整合性が取れており、「彼の名前は牛利である」とする非常に論理的な考え方です。
ただし、「次使」に続く「都巿(または都市)」という役職が具体的に何を指すのかは分かっていません。

2. フルネーム説
「都巿」が苗字(姓)で、「牛利」が名前であるとする説です。
現在、日本には「都市(といち)」という苗字の方が約100人おり、そのうち約3割が長崎県(松浦や佐世保周辺)にいらっしゃるというデータから、倭から魏へ向かう道中の長崎県周辺の人物が使者に選ばれたとするユニークな推測です。
魏志倭人伝に登場する倭人の多くは、姓を持たず「名前のみ」や「役職+名前」で記されるのが一般的であり、彼だけがフルネームで呼ばれる理由が不明です。
3. 由碁理(ゆごり)説
難升米を「梨迹臣命(近江の豪族)」とする説とセットで語られることが多く、都巿牛利を『古事記』に登場する丹波(兵庫県東部)の大県主「由碁理(ゆごり/ゆきり)」とする説です。
由碁理の娘は第9代開化天皇の妃になったとされていますが、開化天皇は紀元前(あるいはかなり古い時代)の天皇とされており、景初二年(238年)という時代と全く合いません。
また、魏と反対方向の丹波からわざわざ使者を出した地理的理由も説明が困難です。

4. 田道間守(たじまもり)説
『日本書紀』に登場し、垂仁天皇の命を受けて常世国(中国)へ渡ったとされる「田道間守」とする説です。
日本書紀では田道間守の派遣は「垂仁天皇90年(西暦61年)」とされており、卑弥呼の時代(238年)とは200年近いズレがあります。
※どちらかといえば、西暦57年に金印をもらった使者の方に近い年代です。
まとめ
史料に記述された「事実」と、そこから派生する「解釈・仮説」を整理します。
- 【史料に記述された事実】
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- 景初二年(238年)に難升米とともに魏へ朝貢した倭の次使(副使)である。
- 魏の皇帝から「率善校尉」の役職と銀印を与えられた。
- 初回のみ「都巿牛利」と記され、以降は「牛利」と呼ばれている。
- 【事実に基づく解釈】
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- 「巿(ふ)」と「市(し)」の文字の混同は写本の問題であり、どちらの字をとるかで読み方が変わる。
- 史料の記述ルール(大夫・難升米との対比や、後半の省略)を素直に読めば、「次使都巿」という肩書の「牛利」さんであるとする解釈が最も説得力を持つ。
- 【今後の仮説・論点】
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フルネーム説・由碁理説・田道間守説はいずれも状況証拠や名前の響きからの推論(推測)に留まります。
特に神話上の人物に比定する説は「時代的な矛盾」を抱えており、史料的根拠の補強がなければ事実として評価することは困難です。

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