魏志倭人伝【外交記事(景初〜)】原文と現代語訳

魏志倭人伝(三国志巻30)の序文・道程記事の原文・書き下し文・現代語訳。倭国の概要・帯方郡から邪馬壹国への道程・対馬・壱岐・末盧・伊都・奴・不弥・投馬・邪馬壹の各国の官職名と戸数を収録。

『魏志倭人伝』(三国志 巻30 魏書 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)の外交記事(景初〜正始)を収録する。卑弥呼の魏への遣使・金印紫綬・詔書・台与の遣使を含む。

目次

史料データ

項目内容
書名三国志(さんごくし) 魏書 巻30
烏丸鮮卑東夷伝 倭人条 ── 外交記事(景初〜正始)
分類中国正史(二十四史のひとつ)
著者陳寿(ちんじゅ)
成立年280〜297年(諸説あり)
底本紹煕本(宮内庁書陵部所蔵)
紹煕本 参照URLhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000067540014/c8ed7aeede1b4f7288af082e6e84f2e7
紹興本 参照URLhttps://dl.ndl.go.jp/pid/899855/1/59

原文

景初二年(238年)—— 卑弥呼、初めて魏へ使者を派遣

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献太守劉夏遣吏将送詣京都
其年十二月詔書報倭女王曰

「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都巿牛利奉汝所献男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢献是汝之忠孝我甚哀汝今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封付帯方太守假授汝其綏撫種人勉為孝順汝来使難升米牛利涉遠道路勤労今以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉假銀印青綬引見労賜遣還
今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所献貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤皆装封付難升米牛利還到錄受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也」

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

正始元年(240年)—— 魏、倭王へ詔書と印綬を送る

正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拝假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

正始四年(243年)—— 倭王、再度使者を派遣

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎将印綬

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

正始六年(245年)—— 難升米へ黄幢を賜る

其六年詔賜倭難升米黃幢付郡假授

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

正始八年(247年)—— 狗奴国との争い・張政の派遣

其八年太守王頎到官倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡説相攻擊状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拝假難升米為檄告諭之

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

卑弥呼の死・壹與の即位・倭の安定

卑弥呼以死大作冢径百余歩殉葬者百余人
更立男王國中不服更相誅殺当時殺千余人復立卑弥呼宗女壹與年十三為王國中遂定

政等以檄告諭壹與

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

壹與、魏へ使者を送る

壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪狗等二十人送政等還因詣臺献上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

書き下し文

景初二年(238年)—— 卑弥呼、初めて魏へ使者を派遣

景初二年(238年)六月、倭の女王は大夫難升米(なしめ)らを郡(帯方郡)に遣わし、天子のもとに詣(まい)りて朝献(ちょうけん)せんことを求む。太守劉夏(りゅうか)は吏(つかい)を遣わして送り、京都(みやこ)に詣らしめたり。その年十二月、詔書を以て倭の女王に報(こた)えて曰(いわ)く:

「制詔(みことのり)、親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼へ:帯方太守劉夏が使を遣わして汝(なんじ)の大夫難升米・次使都市牛利(とちぎゅうり)を送り届け、汝の献ずる男の生口(せいこう)四人・女の生口六人・班布(はんぷ)二匹二丈を奉(たてまつ)りて至る。汝の所在は踰(こ)えて遠きに乃(すなわ)ち使を遣わして貢献したるは、これ汝の忠孝(ちゅうこう)なり。我はなはだ汝を哀(あわれ)む。今、汝を親魏倭王と為し、金印紫綬(きんいんしじゅ)を仮(かり)に授け、装封して帯方太守に付して汝に仮授せしむ。その種人(しゅじん)を綏撫(すいぶ)し、孝順(こうじゅん)を勉(つと)めよ。汝の来使難升米・牛利は遠道に涉(わた)り勤労(きんろう)せり。今、難升米を率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)と為し、牛利を率善校尉(そつぜんこうい)と為し、銀印青綬(ぎんいんせいじゅ)を仮に授け、引見(いんけん)して労(ねぎら)い賜(たまもの)を与えて遣還せしめたり。今、絳地交龍錦(こうじこうりゅうきん)五匹・絳地縐粟罽(こうじすうぞくけい)十張・蒨絳(せんこう)五十匹・紺青(こんじょう)五十匹を以て汝の献ずる貢の直(あたい)に答う。また特に汝に紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹・細班華罽(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜い、みな装封して難升米・牛利に付して還らしめたり。到りて受け録(しる)すべし。みな汝の国中の人に示し、国家の汝を哀(あわれ)むがゆえに鄭重(てにあつ)く汝に好物(よきもの)を賜うことを知らしめよ」

正始元年(240年)—— 魏、倭王へ詔書と印綬を送る

正始元年(240年)、太守弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉梯儁(ていしゅん)らを遣わして詔書・印綬を奉(たてまつ)りて倭国に詣らせ、倭王を拝し(印綬を)仮(かり)に授けたり。あわせて詔に齎(もたら)されて金帛(きんぱく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいもつ)を賜う。倭王は使に因(よ)りて上表して恩詔(おんちょう)に謝したり。

正始四年(243年)—— 倭王、再度使者を派遣

その四年(243年)、倭王は復(また)使を遣わし、大夫伊聲耆(いせき)・掖邪狗(えやく)ら八人が、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん)・緜(わた)・衣帛・布・丹・木𤝔(もくわい)・短弓矢を上献(じょうけん)せり。掖邪狗らは壹(いっ)しく率善中郎将の印綬を拝したり。

正始六年(245年)—— 難升米へ黄幢を賜る

その六年(245年)、詔して倭の難升米(なしめ)に黄幢(こうどう)を賜い、郡(帯方郡)に付して仮(かり)に授けしめたり。

正始八年(247年)—— 狗奴国との争い・張政の派遣

その八年(247年)、太守王頎(おうき)官(やくしょ)に到る。倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみこきゅうこ)は素(もと)より和(なかよ)からず。倭(の使者)載斯烏越(さいしおえつ)らを郡(帯方郡)に遣わして、相(たがい)に攻撃する状(ありさま)を説(と)く。塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを遣わして、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米を拝して檄(げき)を以て之を告諭(こくゆ)せしめたり。

卑弥呼の死・壹與の即位・倭の安定

卑弥呼、以(もっ)て死せり。大いに冢(つか)を作り、径(わたり)百余歩。殉葬者百余人。更(あらた)めて男王を立てたるも、国中服さず、更(かわるがわる)に相誅殺し、当時千余人を殺せり。復(また)卑弥呼の宗女(そうじょ)壹與(いよ)、年十三を立てて王と為すに、国中遂(つい)に定まれり。

政(ちょうせい)らは檄を以て壹與に告諭せり。

壹與、魏へ使者を送る

壹與は倭の大夫・率善中郎将掖邪狗(えやく)ら二十人を遣わして政らの還(かえ)るを送り、因(よ)りて臺(たい)〔魏の都・洛陽の朝廷〕に詣りて、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大句珠(せいたいこうたま)二枚・異文雑錦(いもんざつきん)二十匹を貢せり。

現代語訳

景初二年(238年)—— 卑弥呼、初めて魏へ使者を派遣

景初二年(238年)六月、倭の女王は大夫(たいふ)難升米(なしめ)らを(帯方)郡へ遣わして(郡から)天子のもとへ赴いて朝献(ちょうけん)〔朝貢〕したいと求めた。太守劉夏(りゅうか)は吏(役人)を遣わして(難升米を)引率し、京都(中国の都・洛陽)へ送り届けた。

その年の十二月、詔書(ちょうしょ)をもって倭の女王に返答して言った。

「制詔(ちょうじ)、親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼へ:帯方太守劉夏が使者を遣わして汝(なんじ)の大夫難升米と次使都市牛利(とちぎゅうり)を送り届け、汝の献じた男の生口(せいこう)〔捕虜・奴隷〕四人、女の生口六人、班布(はんぷ)〔縞模様の布〕二匹二丈(を届けた)。汝の所在は遠くへだたっているにもかかわらず使者を遣わして貢献(こうけん)したのは、これ汝の忠孝(ちゅうこう)である。われはなはだ汝を愛(おも)う。今、汝を親魏倭王(しんぎわおう)となし、金印紫綬(きんいんしじゅ)〔金製の印と紫の組紐〕を仮(かり)に下し、装封(そうふう)して帯方太守に付して汝に授けさせる。その(帯下の)種人(しゅじん)〔臣下の民〕を綏撫(すいぶ)〔なだめ治める〕し、孝順(こうじゅん)〔従順〕であるよう励め。汝が送ってきた使者の難升米と牛利は遠路をわたる労苦をともにした。今、難升米を率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)とし、牛利を率善校尉(そつぜんこうい)とし、銀印青綬(ぎんいんせいじゅ)〔銀製の印と青の組紐〕を仮に下す。(これらを)引見(いんけん)〔皇帝に引き合わせて〕し、労(いたわ)り賜物を与えて帰した。
今、絳地交龍錦(こうじこうりゅうきん)五匹・絳地縐粟罽(こうじすうぞくけい)十張・蒨絳(せんこう)五十匹・紺青(こんじょう)五十匹を、汝が献じた貢物の値(あたい)に答えるものとして贈る。また特に汝に紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹・細班華罽(さいはんかけい)五張・白絹(しろぎぬ)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜う。みな装封して難升米・牛利に付して(汝のもとへ)返す。(汝の)もとに届き次第受け取り記録せよ。みな汝の国中の人に見せ、国家が汝を愛するゆえに丁重に好物を賜ったことを知らしめよ」

正始元年(240年)—— 魏、倭王へ詔書と印綬を送る

正始元年(240年)、太守弓遵(きゅうじゅん)は建中校尉(けんちゅうこうい)梯儁(ていしゅん)らを遣わして詔書・印綬を奉じて倭国へ赴かせ、倭王に(爵位を)拝し(印綬を)仮(かり)に授けた。あわせて詔書に従って金帛(きんぱく)・錦罽(きんけい)・刀・鏡・采物(さいもつ)〔彩色された物品〕を賜った。倭王は(梯儁の)使に因(よ)って(返礼の)上表(じょうひょう)を提出し、恩詔(おんちょう)に謝した。

正始四年(243年)—— 倭王、再度使者を派遣

その四年(243年)、倭王は再び大夫伊聲耆(いせき)・掖邪狗(えやく)ら八人の使者を遣わして、生口(せいこう)・倭錦(わにしき)・絳青縑(こうせいけん)・綿(わた)・衣帛(いはく)・布・丹・木𤝔(もくわい)〔弓の材料か〕・短弓矢(たんきゅうや)を献上させた。掖邪狗らはひとしく率善中郎将の印綬を拝した。

正始六年(245年)—— 難升米へ黄幢を賜る

その六年(245年)、詔によって難升米(なしめ)に黄幢(こうどう)〔黄色い旗〕を賜い、郡(帯方郡)に付して仮(かり)に授けさせた。

正始八年(247年)—— 狗奴国との争い・張政の派遣

その八年(247年)、太守王頎(おうき)が着任した。倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみこきゅうこ)は、素より(もとから)仲が悪かった。(卑弥呼は)倭(の使者)載斯烏越(さいしおえつ)らを郡(帯方郡)へ遣わして互いに攻撃している状況を説明した。(王頎は)塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)らを遣わして詔書・黄幢を持参させ、難升米を拝して(告諭の)檄(げき)〔文書〕を示して諭した。

卑弥呼の死・壹與の即位・倭の安定

卑弥呼は(その後)死んだ。大きな塚(つか)を作り、径(直径)百余歩(ほ)。殉葬者(じゅんそうしゃ)〔一緒に埋葬された者〕は百余人(いた)。
(次いで)男王を立てたが、国中が(これに)服さず、互いに誅殺し合い、その時千余人が殺された。(そこで)再び卑弥呼の宗女(そうじょ)〔一族の女子〕壹與(いよ)、年十三を立てて王とすると、国中がついに定まった。

(帯方郡の)張政らは檄(げき)をもって壹與に告諭した。

壹與、魏へ使者を送る

壹與は、倭の大夫・率善中郎将の掖邪狗(えやく)ら二十人を遣わして張政らの帰還を送り、そのまま(都の)臺(たい)〔洛陽の魏の朝廷〕に赴いて、男女の生口三十人を献上し、白珠(しらたま)五千孔(こ)・青大句珠(せいたいこうたま)二枚・異文雑錦(いもんざつきん)二十匹を貢いだ。

語注

語句読み解説
景初二年けいしょにねん
西暦238年
魏・明帝曹叡(そうえい)の治世。
この年に公孫淵が燕国として独立したが魏に滅ぼされた。
帯方郡が魏の直轄地になったのもこの年。
難升米なしめ卑弥呼が派遣した大夫(外交使節)。
景初二年から正始八年まで繰り返し登場する。
魏から「率善中郎将」の称号を与えられた。
都市牛利とちぎゅうり
つしごり
難升米とともに派遣された次使。
「率善校尉」に任じられた。
親魏倭王しんぎわおう魏が卑弥呼に与えた称号。
「親魏」は「魏の友好国」を意味する封号。
金印紫綬きんいんしじゅ金製の印と紫の組紐。
中国の封爵制度で皇族・高位の諸侯に与えられる最上位の格式。
生口せいこう捕虜または奴隷のこと。
倭からの朝貢品として繰り返し登場する。
銅鏡百枚どうきょうひゃくまい卑弥呼に下賜されたとされる銅鏡。
邪馬台国論争において三角縁神獣鏡との関係が議論されている。
正始せいし魏・斉王(曹芳)の年号(240〜249年)。
弓遵・王頎きゅうじゅん・おうき帯方郡の太守。交代して任じられた人物。
梯儁ていしゅん正始元年に倭国へ派遣された魏の使者。
倭国側では直接魏の使者を迎えた記録となる。
卑弥弓呼ひみこきゅうこ狗奴国の男王。
名前が卑弥呼と似ていることから、関係性を疑う説もある。
黄幢こうどう黄色の旗・旌旗。
軍事的指揮権を象徴するとも解釈される。
壹與いよ卑弥呼の宗女(一族の女子)で後継の女王。
「臺与(とよ)」とも読む(後漢書では「臺与」)。
13歳で即位した。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 景初二年(238年)六月が、記録上の最初の倭魏外交の年として明記されている
  • 卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印紫綬が与えられたと記されている
  • 銅鏡百枚が下賜物の一つとして具体的に記されている
  • 卑弥呼の墓は「径百余歩」の大塚で、殉葬者百余人とある
  • 後継者壹與は卑弥呼の「宗女」(一族の女子)で即位時13歳と明記されている

💬 解釈が分かれる箇所

「銅鏡百枚」と三角縁神獣鏡の関係について

三角縁神獣鏡(日本各地の古墳から多数出土)が卑弥呼への下賜品であるとする説と、景初二年(238年)以降に日本で独自に製作されたとする説がある。
三角縁神獣鏡の出土分布が畿内説の重要論拠のひとつとされてきたが、製作地・年代についての議論は続いている。

「壹與」の読み方・漢字について

紹煕本・紹興本は「壹與(いよ)」と表記するが、後漢書では「臺与(臺與)」と記す。
「壹(いち)」か「臺(たい)」かで読みが異なり、「台与(とよ)」とも呼ばれる。

卑弥呼の「墓・径百余歩」の比定地について

奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)など複数の候補が挙げられているが、「径(直径)百余歩」(約135〜150m)と一致するかどうかは計測方法・里程によって異なる。

景初二年か景初三年か

梁書は「景初三年(239年)」と記しており、「景初二年」(238年)と食い違う。
景初二年(238年)は遼東で戦乱(公孫淵の乱)があった時期であり、倭の使節が安全に通過できたか疑問視する見方がある一方、梁書側が公孫淵討伐前の混乱期に使者が来られず翌年になったと説明する記述もある。
どちらの年に使者が実際に到達したかは議論がある。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「殉葬者百余人」の数が実数か誇張かは不明
  • 詔書の文章は魏側の定型文・外交文書の形式をとっており、卑弥呼の実態を直接反映するものではない可能性がある

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