魏志倭人伝【序文・道程記事】原文と現代語訳

魏志倭人伝(三国志巻30)の序文・道程記事の原文・書き下し文・現代語訳。倭国の概要・帯方郡から邪馬壹国への道程・対馬・壱岐・末盧・伊都・奴・不弥・投馬・邪馬壹の各国の官職名と戸数を収録。

『魏志倭人伝』(三国志 巻30 魏書 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)の序文・道程記事を収録する。倭国の概要・帯方郡から邪馬台国への道程・各国の官職名・戸数を含む。

本ページの原文は紹煕本を底本とする。

目次

史料データ

項目内容
書名三国志(さんごくし) 魏書 巻30
烏丸鮮卑東夷伝 倭人条 ── 序文・道程記事
分類中国正史(二十四史のひとつ)
著者陳寿(ちんじゅ)
成立年280〜297年(諸説あり)
底本紹煕本(宮内庁書陵部所蔵)
紹煕本 参照URLhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000067540014/c8ed7aeede1b4f7288af082e6e84f2e7
紹興本 参照URLhttps://dl.ndl.go.jp/pid/899855/1/59

原文

倭人在帯方東南大海之中依山島為國邑旧百余國
漢時有朝見者今使訳所通三十國

従郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千余里

始度一海千余里至対海國

紹興本:対
紹煕本:対

其大官曰卑狗副曰卑奴母離
所居絶島方可四百余里
土地山険多深林道路如禽鹿径有千余戸
無良田食海物自活乗船南北巿糴

又南渡一海千余里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北巿糴

又渡一海千余里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之

東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千余戸世有王皆統属女王國郡使往来常所駐

東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二万余戸

東行至不弥國百里官曰多模副曰卑奴母離有千余家

南至投馬國水行二十日官曰弥弥副曰弥弥那利可五万余戸

南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲支次曰奴佳鞮可七万余戸

『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

書き下し文

倭人は帯方の東南、大海の中に在りて、山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国なり。漢の時、朝見する者有り。今、使訳の通ずるところ三十国なり。

郡より倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、乍(ある)は南し乍は東し、その北岸・狗邪韓国に到るまで七千余里。

始めて一海を度ること千余里にして、対海国〔紹興本:対馬国〕に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。所居の絶島は方(一辺)四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿の径(こみち)のごとし。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(していく)す。

また南して一海を渡ること千余里、これを瀚海という。一大国に至る。官もまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木の叢林多く、三千許(ばか)りの家あり。いくらか田地あり、田を耕すもなお食に足らず、また南北に市糴す。

また一海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸あり。山海に濱(のぞ)みて居り、草木茂り盛んにして、行くに前人を見ず。魚・鰒を捕るを好み、水の深浅を問わず、みな沈没して之を取る。

東南に陸行すること五百里にして伊都国に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸あり。世々(よよ)王あり、みな女王国に統属す。郡使の往来する常の駐るところなり。

東南して奴国まで百里。官を兕馬觚といい、副を卑奴母離という。二万余戸あり。

東行して不弥国まで百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり。

南して投馬国まで水行二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という。五万余戸ばかりあり。

南して邪馬壹国(女王の都するところ)まで水行十日・陸行一月。官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という。七万余戸ばかりあり。

現代語訳

倭人は帯方(たいほう)の東南、大海の中に存在し、山や島に依拠して国邑(くにぐに)をなしている。旧来、百余国あった。
漢の時代には(中国へ)朝見した者があり、現在は使訳(使節と通訳)が通じる三十国がある。

郡(帯方郡)から倭へ至るには、海岸に沿って水行し、韓国(韓の諸国)を経て、方向が南に向いたり東に向いたりしながら、その(倭の)北岸・狗邪韓国(くやかんこく)に到着するまで七千余里(である)。

初めて一海を渡ること千余里で、対海国(たいかいこく)〔紹興本では「対馬国」〕に至る。
その大官を卑狗(ひく)といい、副(次官)を卑奴母離(ひなもり)という。
所在する絶島(離島)は方(一辺)四百余里ばかりである。
土地は山がちで険しく、深い林が多く、道路は獣道のようである。千余戸がある。
良田がなく、海産物を食して自活し、船に乗って南北へ(各地へ)市糴(していく)〔米などの食料を市で売買すること〕する。

またさらに南へ一海を渡ること千余里、これを瀚海(かんかい)という。一大国(いちだいこく)に至る。官もまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方は三百里ばかり。竹木の叢林(そうりん)が多く、三千ほどの家がある。いくらかの田地があり、田を耕すがそれでも食には不足し、やはり南北へ市糴する。

またさらに一海を渡ること千余里で末盧国(まつろこく)に至る。四千余戸がある。山と海に面して居住し、草木が茂り繁って行くときに前の人が見えない。魚や鰒(あわび)を捕ることを好み、水の深浅にかかわらずみな潜って取る。

東南に陸行すること五百里で伊都国(いとこく)に到達する。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(せまこ)・柄渠觚(へくこ)という。千余戸がある。代々王があり、その(歴代の)王はみな女王国に統属する。郡使(帯方郡の使者)が往来する際の常の宿所(じょうしょ)である。

東南に奴国(なこく)まで百里(である)。官を兕馬觚(じまこ)といい、副を卑奴母離という。二万余戸がある。

東行して不弥国(ふみこく)まで百里(である)。官を多模(たも)といい、副を卑奴母離という。千余家がある。

南に投馬国(とうまこく)まで水行二十日(かかる)。官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という。五万余戸ばかりがある。

南に邪馬壹国(やまいちこく)〔女王の都するところ〕まで、水行十日・陸行一月(かかる)。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(ひまます)といい、次を弥馬獲支(ひまかくき)といい、次を奴佳鞮(なかてい)という。七万余戸ばかりがある。

語注

語句読み解説
帯方郡たいほうぐん中国が朝鮮半島北部に置いた行政区域。
現在の北朝鮮・黄海道付近とする説が有力。
後漢末に楽浪郡から分かれて設置された。
乍南乍東さなんさとう「南に向いたり東に向いたりしながら」の意。
「乍〜乍〜」は〜したり〜したりする様子を表す。
狗邪韓国くやかんこく現在の朝鮮半島南端・金海市付近に比定する説が有力。
対海国たいかいこく現在の対馬(長崎県)に比定する説が通説。
紹煕本では「対海」、紹興本では「対馬」と表記が異なる。
瀚海かんかい対馬と壱岐の間の海域(玄界灘)を指すとされる。
一大国いちだいこく現在の壱岐(長崎県)に比定する説が通説。
原文には「一大国」とあるが、誤写とするのが通説。
『魏略』や『後漢書』の記述や地理的観点から「一支国」の誤写か?
末盧国まつろこく現在の佐賀県唐津市付近に比定する説が多い。
伊都国いとこく現在の福岡県糸島市付近に比定する説が多い。
「郡使往来常所駐」の記述から交通上の要衝であったとみられる。
奴国なこく現在の福岡市・春日市付近に比定する説が多い。
後漢書・光武帝紀に「倭奴国」として登場する国と同一とみられる。
不弥国ふみこく所在地は諸説あり未確定。
奴国から東百里とされる。
投馬国とうまこく所在地は大きく諸説あり。
(出雲説・備後説・薩摩説・北部九州内説など)
邪馬壹国やまいちこく邪馬台国の表記。
紹煕本・紹興本ともに「壹」と書く。
後漢書などでは「邪馬臺(台)国」と記される。
「臺」と「壹」の字形が似ていることから、筆写時の誤写とする説が主流。
卑狗・卑奴母離ひく・ひなもり官職名。
当時の倭語の音写とみられるが、正確な読みは不明。
市糴していく食料(主に米)を市場で売買すること。
世有王よにおうあり「代々王がある」の意。
伊都国のみに記される表現で、特別な地位を示すとも解釈される。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 紹煕本の表記は「対海國」、紹興本では「対馬國」と異なる
  • 郡から女王国までの合計は本文の数値を単純に合算すると一万二千余里(後述の「自郡至女王國万二千余里」と一致)
  • 伊都国から邪馬壹国まで、方位は「東南・東南・東行・南・南」と記されている

💬 解釈が分かれる箇所

「南至邪馬壹國」の「南」の方角について

伊都国から「東南」「東南」「東」と続いたあと突然「南」に転じる。
九州説はそのまま南とする。
畿内説の一部は「東」の誤記あるいは意図的な方角の変更と解釈する。

「水行十日陸行一月」の起点について

投馬国からの所要日数か、帯方郡からの総所要日数かで位置の推定が大きく変わる。
投馬国からであれば比較的近距離。
郡からの合計であれば距離が出ない(水行20日+水行10日+陸行1月で計算が合わなくなる)という意見もある。

里数の基準について

当時の「一里」を現代の短里(約77m説)で換算するか長里(約435m説)で換算するかで比定地が大きく異なる。
郡から末盧国まで約一万里を長里で換算すると約4,350kmとなり九州まで届かないという議論がある。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 道程記述が現地調査に基づく正確な記録なのか、伝聞・概算なのかは不明
  • 「乍南乍東」が韓国経由区間のみを指すのか、以降の行程全体にも及ぶのかについても解釈が分かれる

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