中国の正史『後漢書』は、魏志倭人伝と並んで邪馬台国研究の最重要史料のひとつです。
倭奴国への金印授与(57年)・帥升の遣使(107年)・卑弥呼の共立まで、後漢時代(25〜220年)の倭の動向を記しています。
- 志賀島で発見された金印「漢委奴国王」の出典となる超重要史料。
- 『魏志倭人伝』より対象時代は古いが、書かれたのは約150年後(5世紀)。
- 魏志倭人伝と内容が似ているが、「拘奴国(狗奴国)の方角」など決定的な違いがあり、論争の的となっている。
後漢書とは

後漢書は、中国の王朝・後漢(25〜220年)の歴史を記した正史です。
「本紀」10巻・「列伝」80巻・「志」30巻の合計120巻で構成されており、倭に関する記述は巻85「東夷列伝」の「倭条」に収められています。

史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分類 | 中国正史(二十四史のひとつ、紀伝体) |
| 著者 | 范曄(本紀・列伝)、司馬彪(志) |
| 成立年 | 本紀・列伝:432〜445年頃、志:306年以前 |
| 対象期間 | 後漢時代(25〜220年) |
| 倭の記述箇所 | 巻85 東夷列伝 倭条、同 韓条 |
ここで注目すべきは、対象としている時代(25〜220年)と、実際に書かれた時代(432〜445年)が大きく離れているという点です。
魏志倭人伝(280〜297年成立)の方が約150年も早く書かれているため、後漢書の信憑性を評価する上で非常に重要なポイントとなります。

史料としての信憑性
『後漢書』全体としては二十四史のひとつに数えられ、後漢時代の歴史を伝える史料として極めて高く評価されています。
しかし、「倭」を含む東夷の記述に関しては、先行する『魏志倭人伝』の内容をベースに書かれたとする説が有力です。
両書の内容が酷似していることがその理由ですが、細部には『後漢書』独自の記述(後述)も存在するため、単純な引き写しとは言いきれず、両者を慎重に比較しながら読む必要があります。
後漢書の複雑な成立過程
中国では王朝が変わった際に前王朝の歴史を記録する文化がありますが、後漢は存続中から国家事業として歴史編纂を行っていました。
班固や劉珍といった大学者たちがリレー形式で書き継ぎ、後漢末期に楊彪らによって『東観漢記(とうかんかんき)』としてまとめられます。
しかし、複数人で書かれたため一貫性に欠けており、後年になって「一人で後漢の歴史をまとめ直そう」とする試みが相次ぎました。
【補足】9つの歴史書と「七家後漢書」
後漢の歴史をまとめ直す動きの中で、代表的なものとして紀伝体(人物中心)で書かれた『七家後漢書(張璠を加えて八家とも)』と呼ばれる史書群や、編年体(年代順)で書かれた袁宏の『後漢紀』など、計9種の書物が誕生しました。
- 後漢書(謝承 / 呉)※紀伝体
- 後漢記(薛瑩 / 呉)※紀伝体
- 続漢書(司馬彪 / 西晋)※紀伝体・後に現在の「志」となる
- 後漢書(華嶠 / 西晋)※紀伝体
- 後漢書(謝沈 / 東晋)※紀伝体
- 後漢南記(張瑩 / 東晋)※紀伝体
- 後漢書(袁山松 / 東晋)※紀伝体
- 後漢紀(張璠 / 東晋)※編年体
- 後漢紀(袁宏 / 東晋)※編年体
范曄の悲劇と完成への道のり
南朝の官僚であった范曄(398〜445年)は、上記の様々な歴史書を統合し、決定版とも言える『後漢書』の執筆に取り掛かります。
しかし、彼は「志」の部分を完成させる前に、政治的な謀反の疑いをかけられ処刑されてしまいます。
現在私たちが読んでいる『後漢書』(全120巻)は、范曄の死後に別の学者が補って完成させた「合体版」なのです。
後漢末期、複数人で編纂した『東観漢記』が完成するも、内容にばらつきが残る。
「私が完璧な歴史書を書く!」と、9人もの学者がそれぞれ後漢の歴史書(七家後漢書など)を執筆。
司馬彪が『続漢書』を書いたのもこの時期。
范曄が過去の歴史書をまとめ上げ、新たな『後漢書』(本紀・列伝のみ)を執筆。
しかし完成前に処刑される。
学者の劉昭が、范曄の遺した「本紀・列伝」に、司馬彪の書いた『続漢書』の「志」をドッキングさせて注釈を作成。ついに現在の『後漢書』の形が完成!
邪馬台国研究における最重要史料である理由
後漢書は、魏志倭人伝より成立が約150年遅いにもかかわらず、邪馬台国研究に欠かせない史料です。
最大の理由は、魏志には書かれていない「独自の記述」が存在するためです。

最重要の記述は「建武中元二年(57年)倭奴国奉貢朝賀…光武賜以印綬」という一文です。
これが志賀島で発見された金印「漢委奴国王」の直接の出典であり、金印の真偽と倭奴国の実在を証明する決定的な根拠となっています。
後漢書の倭に関する記述は魏志倭人伝をベースにしていると言われますが、実は見逃せない違いがあります。
- 国名の表記: 魏志が「邪馬壹国(ヤマイコク)」とするのに対し、後漢書は「邪馬臺国(ヤマタイコク)」と表記しています。
- ライバル国の方角: 卑弥呼と対立した狗奴国(後漢書では拘奴国)について、魏志は「女王国の南にある」と記していますが、後漢書は「女王国の東にある」と記しています。
これらの違いが「范曄の単なる勘違い」なのか、それとも「魏志とは別の隠された史料を持っていたから」なのか。この謎が、現代の邪馬台国論争をさらに白熱させているのです。
よくある質問(FAQ)
まとめ
後漢書は、後漢時代(25〜220年)の歴史書として范曄・司馬彪らが編纂した正史です。
倭に関しては金印授与(57年)・帥升の遣使(107年)・倭国大乱・卑弥呼擁立などの記述を持ち、邪馬台国研究において魏志倭人伝と並ぶ重要な参照史料となっています。
成立年(432〜445年)が魏志倭人伝より約150年遅いこと、複数の書物を統合した経緯があることから、倭に関する部分は魏志倭人伝の内容をベースにしていると考えられています。
しかし、国名の表記や拘奴国の方角など、魏志とは異なる独自の記述も存在しており、両者をいかに比較検討するかが古代史研究の醍醐味と言えます。

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