後漢書【倭条】原文と現代語訳

後漢書巻85東夷列伝「倭条」の原文・書き下し文・現代語訳。光武帝の金印授与(57年)・帥升の遣使(107年)・桓霊間の倭国大乱・卑弥呼共立を記した後漢代の倭の総合史料。

『後漢書』巻85東夷列伝「倭条」を収録する。光武帝金印(57年)・帥升の遣使(107年)・倭国大乱・卑弥呼の共立を記す。

目次

史料データ

項目内容
書名後漢書(ごかんじょ)
巻・章巻85 東夷列伝 倭条
分類中国正史(二十四史のひとつ、紀伝体)
著者范曄(はんよう)
成立年5世紀前半(432〜445年頃)
底本国立国会図書館デジタルコレクション
参照URLhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2544816/1/17
備考〈〉内は李賢(りけん)らの注釈(680年頃付加)

原文

後漢書の中で倭について記載している部分(赤字部はその冒頭)
後漢書の中で倭について記載している部分(赤字部はその冒頭)

【倭の概観・産物】

倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統
其大倭王居邪馬臺國〈案今名邪摩堆音之訛也〉
楽浪郡徼去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國七千餘里
其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同

土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為縑布
出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲
其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃

『後漢書』巻85 東夷列伝 倭条

【男女の風俗・家族制度】

男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆横幅結束相連
女人被髪屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹朱坋身如中國之用粉也

有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆
俗皆徒跣以蹲踞為恭敬人性嗜酒壽考至百餘歳者甚衆
國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒

『後漢書』巻85 東夷列伝 倭条

【法・習俗・通海儀礼】

又俗不盗竊少爭訟犯法者没其妻子重者滅其門族

其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽
灼骨以卜用決吉凶

行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之

『後漢書』巻85 東夷列伝 倭条

【歴史的記事】

建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也
光武賜以印綬

安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見

桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆
於是共立為王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛法俗厳峻

『後漢書』巻85 東夷列伝 倭条

【女王国周辺・夷洲澶洲】

自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王
自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺
自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣

會稽海外有東鯷人分為二十餘國
又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市
會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來

『後漢書』巻85 東夷列伝 倭条

書き下し文

【倭の概観・産物】

倭は韓の東南の大海の中に在り、山島に依りて居(きょ)を為す。凡(およ)そ百余国あり。武帝が朝鮮を滅ぼして以来、使駅の漢に通ずる者は三十許(ばか)りの国にして、国々みな王を称し、世々(よよ)伝統す。その大倭王は邪馬臺国〈案ずるに、今の名「邪摩堆」はその音の訛りなり〉に居す。楽浪郡の徼(さかい)よりその国まで一万二千里、その西北の界の狗邪韓国まで七千余里。その地は大較(おおかた)会稽・東冶の東に在りて、朱崖・儋耳と相近し。ゆえにその法俗は多くを同じくす。

土(つち)は禾稲(かとう)・麻紵(まちょ)・蚕桑(さんそう)に宜(よろし)く、絹布を織ることを知る。白珠・青玉を出し、その山に丹土(たんど)あり。気は温腝(あたたか)にして、冬夏、菜茹(さいじょ)を生ず。牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)なし。その兵に矛・楯・木弓・矢あり、あるいは骨を以て鏃(やじり)と為す。

【男女の風俗・家族制度】

男子はみな顔に黥(いれずみ)し文身す。その文の左右・大小を以て尊卑の差を別(わか)つ。男の衣はみな横幅にして結束し相連ねる。女人は髪を被(たら)して屈紒(くっきつ)し、衣は単被(ひとえ)のごとくにして頭を貫いてこれを著(き)る。並びに丹朱を以て身に坋(ふ)す、中国の粉(おしろい)を用うるがごとし。

城柵・屋室あり、父母・兄弟は異処(いしょ)に在り。ただ会同においてのみ男女の別なし。飲食は手を以てし、籩豆(へんとう)を用う。俗はみな徒跣(はだし)にして、蹲踞(そんきょ)を恭敬(うやまい)の意と為す。人の性(さが)は酒を嗜(たしな)む。寿考(じゅこう)にして百余歳に至る者甚だ衆(おお)し。国に女子多く、大人はみな四・五人の妻を持ち、その余はあるいは二・三人を持つ。女人は淫(みだら)ならず、妒(ねた)まず。

【法・習俗・通海儀礼】

また盗窃(とうせつ)の俗なく、争訟(そうしょう)少なし。法を犯す者はその妻子を没収し、重い者はその門族(いちぞく)を滅ぼす。

その死には喪を十余日停(とど)め、家人は哭泣(こくきゅう)して酒食を進(すす)めず、同類は歌舞を就(なし)て楽と為す。骨を灼(や)いて以て卜(うら)ない、吉凶を決するに用う。

行来・度海するに、一人をして(持衰の役と)令(し)め、梳(くしけず)らず沐(もくよく)せず、肉食せず、婦人に近づかず、名を持衰(じさい)という。もし途(みち)に吉利(きちり)あれば財物を以て雇い、病疾・遭害あれば、持衰の謹(つつし)まざるためと为(な)し、ともに之を殺す。

【歴史的記事】

建武中元二年(57年)、倭奴国は奉貢・朝賀し、使人は自ら「大夫」と称す。倭国の極南界なり。光武帝は印綬を以て賜う。

安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)らは生口(せいこう)百六十人を献じ、謁見(えっけん)を願い請う。

桓霊の間(2世紀後半)、倭国は大いに乱れ、更(かわるがわる)に相攻伐し、歴年(れきねん)主なし。一人の女子あり、名を卑彌呼(ひみこ)という。年長にして嫁がず、鬼神の道を事(つか)えて、能く妖術を以て衆を惑わす。ここにおいてともに立てて王と為す。侍婢(じひ)千人あり、見る者少なし。ただ男子一人のみ飲食を給し辞語(ことば)を伝えて居処(きょしょ)に往来す。宮室・楼観(ろうかん)・城柵はみな兵を持して守衛し、法俗は厳峻(げんしゅん)なり。

【女王国周辺・夷洲澶洲】

女王国の東、海を度ること千余里にして拘奴国(こうどこく)に至る。みな倭種(わしゅ)なるも、女王に属さず。女王国の南、四千余里にして侏儒国(しゅじゅこく)に至る。人の長(たけ)は三・四尺なり。侏儒国の東南、船行(せんこう)一年にして裸国(らこく)・黒歯国(こくしこく)に至る。使駅の伝えるところ、ここを極みとす。

会稽の海外に東鯷人(とうていじん)あり、二十余国に分かれる。また夷洲(いしゅう)および澶洲(たんしゅう)あり。伝えるところでは、秦の始皇帝が方士の徐福(じょふく)に童男女数千人を将(ひき)いさせて海に入らしめ、蓬萊の神仙を求めしめたるも得ず。徐福は誅を畏れて敢えて還らず、ついにこの洲に止まり、世々(よよ)相承けて数万家となれり。人民は時々会稽に至りて市(いち)す。会稽東冶県の人に海に入りて行くに風に遭い流されて澶洲に移りし者あり、所在は絶えて遠く往来すべからず。

現代語訳

【倭の概観・産物】

倭は韓の東南の大海の中、山島を頼みとして居住しており、合わせて百余国ある。武帝が朝鮮を滅ぼして以来〔前108年以降〕、漢へ使者を通じてきたものは三十ほどの国があり、国々はみな王を称し、代々受け継いでいる。

その大倭王は邪馬臺国〔案ずるに、今の「邪摩堆」という名は音の訛りである〕に居る。楽浪郡の境から邪馬臺国まで一万二千里、その西北の境の狗邪韓国まで七千余里である。その地はおおよそ会稽・東冶の東にあたり、朱崖・儋耳と相近い。ゆえに法俗の多くが共通している。

土地には禾・稲・麻・紵・蚕桑に適しており、絹布を織ることを知っている。白珠・青玉を産し、山には丹土がある。気候は温暖で、冬夏を問わず野菜が育つ。牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。武器には矛・楯・木弓・矢があり、鏃に骨を使うこともある。

【男女の風俗・家族制度】

男子はみな顔や体に入れ墨をし、その文様の左右・大小によって身分の上下を区別する。男の衣はすべて横幅の布を体に巻いて結び付ける。女性は髪を振り乱して束ね、衣は一枚の布のように頭から被って着る。いずれも丹朱を身体に塗り付け、中国で白粉を使うようなものである。

城柵・屋室があり、父母・兄弟は別の部屋に暮らす。ただし会合の場では男女の区別がない。食事は手で取り、籩豆〔竹製・木製の器〕を用いる。習俗ではみな裸足で、蹲踞〔しゃがんで腰を落とす姿勢〕が敬意を示す作法である。人は生来酒を好み、百歳以上の長寿者が非常に多い。国には女性が多く、貴人は四、五人の妻を持ち、それ以外の者も二、三人を持つ。女性は淫らでなく、嫉妬もしない。

【法・習俗・通海儀礼】

また盗みの風習がなく、争訟も少ない。法を犯した者は妻子を没収し、重い者は一族を滅ぼす。

死者が出ると十余日間喪に服し、家人は哭泣して酒食を取らない。一方で知人・同族たちは歌舞をして弔う。骨を焼いて卜い、吉凶を決する。

海を渡る際は一人を選んで持衰とする。持衰は梳ることも沐浴もせず、肉食を断ち、女性に近づかない。航海中に吉利であれば財物を与えて報い、もし病気や災害があれば、持衰の謹みが足りなかったためとして、ともに殺す。

【歴史的記事】

建武中元二年〔57年〕、倭奴国が奉貢・朝賀し、使人は自ら「大夫」と称した。倭国の極南界の国である。光武帝は印綬を賜った。

安帝の永初元年〔107年〕、倭国王の帥升らが生口百六十人を献じ、謁見を請い願った。

桓帝・霊帝の間〔2世紀後半〕、倭国は大いに乱れ、互いに攻め合うこと数年、主が立たなかった。そこで一人の女子があり、名を卑彌呼といい、年長で嫁がず、鬼神の道を事として、よく人を惑わすことができた。そこで共立して王とした。侍婢千人があって、見える者は少なかった。ただ男子が一人いて、飲食を給して言葉を伝えた。居処の宮室・楼観・城柵はみな兵が持して守衛し、法俗は厳しかった。

【女王国周辺・夷洲澶洲】

女王国の東、海を渡ること千余里で拘奴国に至る。みな倭種ではあるが、女王に属さない。
女王国の南、四千余里で侏儒国に至る。人の身長は三、四尺。
侏儒国の東南、船で一年行くと裸国・黒歯国に至る。使驛が伝えるところはここを極みとする。

会稽の海外に東鯷人がおり、二十余国に分かれている。また夷洲および澶洲がある。伝えるところでは、秦の始皇帝が方士の徐福に童男女数千人を率いさせ、海に入って蓬萊の神仙を求めさせたが得られなかった。徐福は誅殺を恐れて帰れず、ついにこの洲に留まり、代々受け継いで数万家となった。人民は時々会稽へ市に来ることがある。会稽東冶県の人が海に出た折、風で流されて澶洲に漂着したことがあるが、あまりにも遠く、往来することはできないという。

語注

語句読み解説
邪馬臺国やまたいこく「臺」の字に注目。
魏志は「邪馬壹国」と表記するが、後漢書・梁書は「臺」を使用する。
李賢注「邪摩堆」やまずい
やまだい
李賢の注が「邪摩堆」は「邪摩台」の音の訛りと解釈したもの。
底本である古い版本(百衲本など)では「邪摩」と印刷されている。
後の『隋書』に登場する「邪靡堆」に繋がる表記。
「惟」は「堆」の誤写であるとするのが歴史学界の通説。
狗邪韓国くやかんこく魏志道程でも帯方郡からの最初の寄港地。
朝鮮半島南端(現・金海付近)とされる。
建武中元二年57年光武帝代。倭奴国が金印を賜った年。
光武賜印綬1784年に志賀島で出土した「漢委奴國王」金印との対応が有力とされる。
安帝永初元年107年帥升の遣使年。
帥升すいしょう「倭国王」として使者を送った人物。
「帥」は「率」の異体字とする説もあり、個人名か肩書かは不明。
桓靈間かんれいかん桓帝(146〜168年在位)・霊帝(168〜189年在位)の時代。
拘奴国こうどこく魏志の「狗奴国」に対応するとされる。
後漢書では方角が「東」だが、魏志は「南」。
持衰じさい海上通過の安全祈願役。
一種の忌み役・呪術的儀礼。
夷洲いしゅう台湾・沖縄・伊豆諸島など諸説あり。
澶洲たんしゅう徐福伝説と結びつく島。比定地は不明。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 建武中元二年(57年)に倭奴国が光武帝から印綬を賜ったことが記されている
  • 安帝永初元年(107年)に倭国王帥升らが生口百六十人を献上したことが記されている
  • 2世紀後半(桓霊間)に倭国が大乱し、卑弥呼が共立されたことが記されている
  • 「邪馬臺国」の表記を使用している(魏志は「邪馬壹国」)

💬 解釈が分かれる箇所

光武帝金印と志賀島出土金印の対応

1784年に志賀島(現・福岡市)で出土した「漢委奴國王」金印は、後漢書が記す建武中元二年の授印に相当するとされる。
ただし「委奴国(いとこく・わのなこく)」の読み方や、金印の真贋問題について議論がある。

拘奴国の方角問題

後漢書は「女王国の東、千余里に拘奴国あり」と記すが、魏志は「女王国の南に狗奴国あり」とする。
どちらかが誤記か、あるいは両者が異なる国を指す可能性も論じられる。

「邪馬臺国」表記の意味

後漢書・梁書の「臺」、魏志の「壹」、どちらが正しいかは「邪馬台国」の読みとも深く関わる論点。
李賢注の「邪摩堆」は『隋書』の「邪靡堆」へと繋がり、「ヤマト」音との関連も指摘される。

范曄の情報源

范曄(5世紀)は魏志(3世紀)の内容を参照しながらも、独自の追加情報を記している(帥升・「拘奴国」の方角など)。
どの先行資料を使ったかが、記述の信頼性評価に直結する。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「帥升」は人名か、「率善(中国が与えた称号)」などの官称か。また「倭国王」と明記されているが、その王権の実態は不明
  • 桓霊間(2世紀後半)の倭国大乱の具体的な時期・原因・地域は特定されていない
  • 夷洲・澶洲の徐福伝説と倭との関係をどう理解するか。后漢書の編者は南方の島々を倭の延長として認識していた可能性がある
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