『隋書』巻81「東夷・俀国」を収録する。邪靡堆比定・冠位十二階・「日出処天子」国書・隋使裴清の来日全記録を含む。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 隋書(ずいじょ・ずいしょ) |
| 巻・章 | 巻81 列伝第46 東夷 俀国 |
| 著者 | 魏徴(ぎちょう)ら |
| 成立年 | 本紀・列伝は636年(唐・貞観10年) |
| 分類 | 中国正史・二十四史・紀伝体・断代史 |
| 底本 | ウィキソース(zh.wikisource.org) |
| 参照URL | https://zh.wikisource.org/wiki/隋書/卷81 |
| 備考 | 同巻に「流求国」の記事あり(本ページは俀国のみ) |

原文
【概観・邪馬台国比定・風俗】
俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居
魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日
其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之倭奴國
『隋書』第81巻 列伝第46 東夷
桓靈之間其國大亂遞相攻伐歷年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立為王有男弟佐卑彌呼理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食傳通言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛為法甚嚴
自魏至於齊梁代相王侯遣使達中國
【開皇二十年の遣使・政治体制・風俗】
開皇二十年俀王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕
上令所司訪其風俗使者言俀王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟高祖曰此太無理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子為利歌彌多弗利
無城郭內有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行祭禱
有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀為大國多珍物並敬仰之恒通使往來
『隋書』第81巻 列伝第46 東夷
【大業三年の遣使(日出処天子)】
大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來請佛法
『隋書』第81巻 列伝第46 東夷
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
帝覽之不悅謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
【大業四年:裴清の来日・道程と諸国】
明年上遣文林郎裴清使於俀國
度百濟行至竹島南望𨈭羅國經都斯麻國迥在大海中
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以為夷州疑不能明也
又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀王俀王遣小德阿輩臺從數百人設儀仗鳴鼓角來迎
『隋書』第81巻 列伝第46 東夷
後十日又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞
既至彼都其王與清相見大悅曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境內不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化
清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭
【大業四年の答礼使(小野妹子らの帰国と同行)】
既而引清就館
『隋書』第81巻 列伝第46 東夷
其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗
於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物
此後遂絕
書き下し文
【概観・邪馬台国比定・風俗】
俀国(たこく)は百済・新羅の東南、水陸三千里、大海の中に在りて、山島に依りて居(きょ)す。
魏の時、訳(つうやく)して中国に通ずるもの三十余国、みな自ら王と称す。夷人(いじん)里数を知らず、ただ日を以て計る。
その国境は、東西は五月の行、南北は三月の行にして、おのおの海に至る。その地勢は東が高く西が下る。邪靡堆(やばたい)に都す、すなわち魏志にいわゆる邪馬臺(やまたい)なる者なり。
古に云う、楽浪郡の境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里、会稽の東に在りて儋耳(たんじ)と相い近しと。
漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時、また使を遣わして朝貢す、これを倭奴国(わのなこく)と謂う。
桓霊の間、その国大いに乱れ、遞(たが)いに相攻伐し、歴年主なし。女子あり、名を卑弥呼と名づく。能く鬼道を以て衆を惑わし、ここにおいて国人共に立てて王と為す。男弟あり、卑弥呼を佐(たす)けて国を理(おさ)む。その王に侍婢千人あり、その面(かお)を見る者罕(まれ)なり。ただ男子二人ありて王に飲食を給し、言語を伝通す。その王に宮室・楼観・城柵あり、みな兵を持ちて守衛し、法を為すこと甚だ厳なり。
魏より斉・梁に至るまで、代々王侯を相(継)ぎ、使を遣わして中国に達す。
【開皇二十年の遣使・政治体制・風俗】
開皇二十年(600年)、俀王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはけみ)、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。
上(高祖・文帝)、所司(役所)に令してその風俗を訪(と)わしむ。使者言えらく、「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ぬと云う」。高祖曰く、「これ太だ理なし」と。ここにおいて訓令してこれを改めしむ。
王の妻は号して雞彌(けみ)という。後宮に女六・七百人あり。名づけて太子をば利歌彌多弗利(りかみたふり)と為す。
城郭なく、内に阿蘇山あり、その石故なくして火起り天に接する者あり、俗以て異と為し、因りて祭禱を行う。
如意宝珠あり、その色青く、大いさ鶏卵のごとし、夜は則ち光あり、云うらく魚眼の精なりと。
新羅・百済みな俀を以て大国にして珍物多しと為し、並びにこれを敬仰し、恒に使を通じて往来す。
【大業三年の遣使(日出処天子)】
大業三年(607年)、その王・多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞くならく海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たりて仏法を請う」と。
その国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」。
帝これを覧て悦ばず、鴻臚卿(こうろけい)に謂いて曰く、「蛮夷の書に無礼なる者あり、復た以て聞する勿れ」と。
【大業四年:裴清の来日・道程と諸国】
明年、上、文林郎の裴清(はいせい)を遣わして俀国に使いせしむ。
百済を度りて行き竹島に至り、南に𨈭羅国(たんらこく)を望み、都斯麻国(つしまこく)を経る、迥(はる)かに大海の中に在り。
また東に一支国に至り、また竹斯国(つくしこく)に至り、また東に秦王国に至る。その人、華夏に同じ。以て夷州となすも、疑わらくは明らかにすること能わざるなり。
また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、みな俀王に附庸す。
俀王、小徳(しょうとく)の阿輩臺(あはいだい)を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け鼓角を鳴らして来迎す。
後十日、また大礼(たいれい)の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従えて郊労す。
既にその都に至り、その王、清と相見(まみ)えて大いに悦びて曰く、「我聞く、海西に大隋という礼義の国ありと。故に遣わして朝貢せしむ。我ら夷人、僻(へき)にして海隅に在り、礼義を聞かず。ここを以て境内に稽留し、即ち相見えざりき。今故(ことさら)に道を清め館を飾りて以て大使を待つ。冀(ねがわ)くは大国の惟新の化を聞かん」と。
清答えて曰く、「皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王の化を慕うを以て、故に行人(つかい)を遣わして此に来たりて宣諭せしむ」と。
【大業四年の答礼使(小野妹子らの帰国と同行)】
既にして清を引きて館に就かしむ。
その後、清、人を遣わしてその王に謂いて曰く、「朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒(そな)えん(帰国の途につきたい)」と。
ここにおいて宴享(えんきょう)を設けて以て清を遣わし、復た使者をして清に随い来たりて方物を貢せしむ。
此の後、遂に絶ゆ。
現代語訳
【概観・邪馬台国比定・風俗】
俀国(倭国)は百済・新羅の東南、水陸で三千里の大海の中にあり、山島を拠り所にして居住している。
魏の時代、通訳を介して中国と通交したのが三十余国あり、みな自ら王と称した。夷人は里数(距離)を知らず、ただ日数で計る。
その国境は、東西に五ヶ月の道のり、南北に三ヶ月の道のりであり、それぞれ海に行き着く。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(やばたい)に都を置いている。すなわち魏志にいう邪馬臺(やまたい)である。
古い記録には、楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里離れ、会稽の東に位置して儋耳に近いという。
漢の光武帝の時代、使者を遣わして入朝し、自ら大夫と称した。安帝の時代、また使者を遣わして朝貢し、これを倭奴国という。
桓帝・霊帝の間、その国は大いに乱れ、互いに攻め合い長年主がいなかった。女子がおり、名を卑弥呼という。よく鬼道を用いて衆を惑わし、そこで国人が共同で立てて王とした。男の弟がおり、卑弥呼を補佐して国を治めた。その王には侍婢千人がおり、その顔を見る者は稀であった。ただ男子二人がいて王に飲食を提供し、言葉を取り次いだ。その王には宮室・楼観・城柵があり、みな兵が武器を持って守衛し、法規は甚だ厳格であった。
魏から斉・梁に至るまで、代々王侯が継ぎ、使者を遣わして中国へ通じた。
【開皇二十年の遣使・政治体制・風俗】
開皇二十年〔600年〕、俀王で姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはけみ)という者が、使者を遣わして〔隋の〕朝廷に至った。
上(高祖・文帝)は、役所に命じてその風俗を尋ねさせた。使者が言うには「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けない時、出でて政務を聴き、あぐらをかいて座ります。日が昇れば政務を止め、弟に任せるといいます」。高祖は「それは全く道理に合わない」と言った。そこで訓令してこれを改めさせた。
王の妻は号して雞彌(けみ)という。後宮には女が六、七百人いる。名づけて太子を利歌彌多弗利(りかみたふり)とする。
城郭はなく、国内に阿蘇山があり、その石は理由なく火を起こして天に接することがあり、俗人はこれを異変として祭祀や祈祷を行う。
如意宝珠があり、その色は青く大きさは鶏卵のようで、夜には光を放ち、魚の眼の精であるという。
新羅・百済はみな俀を大国で珍物が多いとし、並びにこれを敬仰して、常に使者を通じて往来している。
【大業三年の遣使(日出処天子)】
大業三年〔607年〕、その王の多利思比孤が使者を遣わして朝貢した。使者は「海西の菩薩天子〔隋の皇帝〕が重ねて仏法を復興させたと聞きました。ゆえに使者を遣わして朝拝させ、あわせて沙門数十人が来て仏法を学ばせていただきます」と言った。
その国書には「日出づる処の天子から、書を日没する処の天子に致す。恙ないか、云々」とあった。
帝(煬帝)はこれを見て不快に思い、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼なものがある。二度と取り次ぐな」と言った。
【大業四年:裴清の来日・道程と諸国】
翌年、上は文林郎の裴清(はいせい)を遣わして俀国への使者とした。
百済を渡って行き、竹島に至り、南に𨈭羅国(済州島)を望み、都斯麻国(対馬)を経た。はるか大海の中にある。
また東へ一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東へ秦王国に至った。そこの人々は華夏(中国人)と同じであった。夷州〔台湾や沖縄などを指す伝説の島〕かと思われるが、疑わしく明らかにできない。
また十余国を経て海岸に達した。竹斯国より以東は、みな俀王に付属する国である。
俀王は、小徳の阿輩臺(あはいだい)を遣わし、数百人を従え、儀仗を設けて太鼓や角笛を鳴らして出迎えた。
十日後、さらに大礼の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従えて郊外でねぎらった。
やがてその都に至ると、その王は清と面会して大いに喜んで言った。「私は海西に大隋という礼儀の国があると聞いていました。ゆえに使者を遣わして朝貢させました。我ら夷人は辺境の海の片隅におり、礼儀を聞きません。それゆえ国境に留め置き、すぐにはお会いしませんでした。今、わざわざ道を清め館を飾り、大使をお待ちしました。どうか大国の新しい教化をお聞かせください」。
清は答えて言った。「皇帝の徳は天地に並び、恩恵は四海に行き渡っています。王が教化を慕われたゆえに、使者を遣わしてここに赴かせ、お言葉を伝えさせました」。
【大業四年の答礼使(小野妹子らの帰国と同行)】
その後、清を案内して館に就かせた。
のち、清は人を遣わして王に「朝廷の命令はすでに伝えました。すぐに帰路につかせてください」と言った。
そこで宴会を設けて清を送り出し、再び使者〔小野妹子ら〕に清に随行させて方物を貢がせた。
こののち、ついに〔隋との使節は〕絶えた。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 俀国 | たこく | 隋書のみにみられる表記。 「倭国」の誤写・誤植とする説が有力。 つくりの「委」と「妥」の草書体が似ている。 |
| 邪靡堆 | やばたい | 隋書が「魏志の邪馬臺国」と同定した地名。 大和(ヤマト)の音写とされる。 |
| 阿毎多利思比孤 | あめのたりしひこ | 「アメノタラシヒコ(天足彦)」。 俀王の名前として記録された。 推古天皇・聖徳太子など比定諸説あり。 |
| 阿輩雞彌 | あはけみ | 「大君(おほきみ)」の音写。 |
| 大業三年 | 607年 | 小野妹子を遣わした年。日本書紀に記録あり。 |
| 裴清 | はいせい | 隋の使者。北史・日本書紀では「裴世清(はいせいせい)」。 『隋書』が「世」の字を意図的に省いている。 唐の皇帝の諱(いみな)を避けた避諱によるとするのが通説。 |
| 都斯麻国 | つしまのくに | 対馬国。 |
| 竹斯国 | つくしのくに | 筑紫(現・福岡県)。 |
| 秦王国 | しんおうこく | 「中華と同じ」とされた謎の国。 倭内の渡来人集落か別の地域か不明。 |
| 阿蘇山 | あそさん | 現在の阿蘇山(熊本県)。 火山活動が記録されている。 |
| 如意宝珠 | にょいほうじゅ | 夜に光る青い宝珠。 「魚の目の精」と言われる。伝説的な宝物。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」:隋書が「倭王の都=邪馬台(ヤマト)」と明示した記録
- 開皇二十年(600年)に倭王の遣使があったことが記されている(日本書紀に記載なし)
- 大業三年(607年)の「日出処天子」国書と煬帝の不快感が記されている
- 翌大業四年(608年)に隋使裴清が来日した記録がある
- 冠位十二階とみられる官位(小徳・大礼)が実働している様子が描写されている
💬 解釈が分かれる箇所
- 「阿毎多利思比孤」は誰か
-
当時の倭の君主は推古天皇(女性)であるが、隋書は「王の妻」「太子」を記し、男性であるかのように書いている。
推古天皇を指すが中国側が誤解した説、実質的な権力者であった聖徳太子や蘇我馬子を「王」と認識した説などがある。 - 開皇二十年(600年)の遣使の事実
-
日本書紀にはこの600年の遣隋使の記録がない。
「天を兄、日を弟」とする呪術的な政治体制を隋の文帝(高祖)に笑われ、「道理に合わないので改めよ」と説教された不名誉な事実であるため、日本書紀の編纂者が意図的に削除したとする説が有力である。あわせて読みたい
日本書紀【神功皇后紀の卑弥呼関連記事】原文と現代語訳 日本書紀巻9「神功皇后紀」の39・40・43・66年条に引用された魏志倭人伝・晋起居注の卑弥呼・台与関連注記の原文と現代語訳。卑弥呼=神功皇后説の根拠とされてきた記事の全文。 - 「日出処天子」の意図
-
対等な関係を求めた独自の天下観(日本型華夷秩序の萌芽)とする解釈が一般的だが、単に仏典(大智度論)の経文を引用しただけで政治的な敵意はなかったとする説もある。
- 「秦王国」の正体
-
筑紫の東にあるとされ「人が華夏(中国人)と同じ」とされた秦王国の比定地は不明。
豊前国(福岡県東部〜大分県)の秦氏(渡来人)の集落を指す説や、中国の伝説(徐福伝説など)に基づく編纂者の付会とする説がある。
🔍 仮説段階(要注意)
- 「邪靡堆=邪馬台」という隋書の認識は、7世紀の中国側の解釈に過ぎず、3世紀の邪馬台国の実際の所在地を示す直接の証明にはならないという見方もある。


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