日本書紀【神功皇后紀の卑弥呼関連記事】原文と現代語訳

日本書紀巻9「神功皇后紀」の39・40・43・66年条に引用された魏志倭人伝・晋起居注の卑弥呼・台与関連注記の原文と現代語訳。卑弥呼=神功皇后説の根拠とされてきた記事の全文。

『日本書紀』巻9「神功皇后紀」に収録された、魏志倭人伝・晋起居注からの引用注記を収録する。卑弥呼の魏への遣使(239・240・243年)と台与の晋への遣使(266年)の記事が「魏志云」「晋起居注云」として引用されている。

目次

史料データ

項目内容
書名日本書紀(にほんしょき)
巻・章巻9 神功皇后摂政紀
著者舎人親王(とねりしんのう)ら
成立年720年(養老四年)
分類日本正史・六国史(編年体・漢文)
底本国立国会図書館デジタルコレクション・ウィキソース
参照URLhttps://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920322
備考本ページは卑弥呼・台与関連の引用注記のみを収録している

原文

三十九年…
是年也太歳己未
魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守鄧夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守鄧夏遣使送汝大夫難斗米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難斗米牛利涉遠道路勤勞今以難斗米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚眞珠鉛丹各五十斤皆装封付難斗米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也

四十年…
魏志云正始元年遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表答謝恩詔

四十三年…
魏志云正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木㩉短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

六十六年…
是年晉武帝泰初二年晋起居注云武帝泰初二年十月倭女王遣重譯貢獻

『日本書紀』巻9 神功皇后摂政紀

現代語訳

三十九年…
この年は太歳己未(239年)である。
『魏志』にいう。明帝の景初三年(239年)六月、倭の女王は、大夫の難斗米(なんとめ)らを遣わして帯方郡に至り、天子に拝謁して朝献したいと求めた。太守の鄧夏(とうか)は役人を遣わして引率させ、京都(洛陽)に送った。その年の十二月、詔書を出して倭の女王に報えて言った。「詔を下して親魏倭王卑弥呼に告げる。帯方太守の鄧夏が使者を遣わして、汝の大夫難斗米と次使の都市牛利を送り、汝の献上した男の生口(奴隷)四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉じて到着した。汝の住む所ははるか遠いのに、使者を遣わして貢献した。これは汝の忠孝である。私はたいそう汝をいとおしく思う。今、汝を親魏倭王とし、金印紫綬を与え、箱に入れて封印し、帯方太守に託して汝に授けさせる。その領民を安んじなだめて、努めて孝順であれ。汝の使者である難斗米と牛利は、遠い道のりをはるばる来てご苦労であった。今、難斗米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、引見してねぎらいの品を賜って帰らせる。今、赤地に交龍を織り出した錦五匹、赤地のちぢみ模様の毛織物十枚、茜染めの赤絹五十匹、紺青の絹五十匹をもって、汝の献上した貢物の返礼とする。また特別に汝に、紺地に句文を織り出した錦三匹、細かい斑模様の華やかな毛織物五枚、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二振り、銅鏡百枚、真珠と鉛丹を各五十斤賜う。すべて箱に入れて封印し、難斗米・牛利に託す。帰着したら受け取りを記録し、すべて汝の国中の人々に示し、我が国が汝をいとおしく思っていることを知らせよ。ゆえに丁重に汝に立派な品を賜うのである」と。

四十年…
『魏志』にいう。正始元年(240年)、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らを遣わし、詔書と印綬を奉じて倭国に至り、倭王に授けた。あわせて詔書を持参し、金帛・錦・毛織物・刀・鏡・彩色の品を賜った。倭王は使者に託して上表し、恩の詔書に感謝の意を答えた、と。

四十三年…
『魏志』にいう。正始四年(243年)、倭王はまた使者である大夫の伊声者(いせいしゃ)、掖邪狗(えやく)ら八人を遣わし、生口、倭の錦、赤や青の薄絹、綿入れの衣、絹布、丹木、短い弓矢などを献上した。掖邪狗らは皆、率善中郎将の印綬を受けた、と。

六十六年…
この年は晋の武帝の泰初二年(266年)である。『晋起居注』にいう。武帝の泰初二年十月、倭の女王が通訳を重ねて使者を遣わし貢献した、と。

語注

語句読み解説
太歳己未たいさいきびその年の干支。
「己未」は西暦239年にあたる。
日本書紀では神功皇后の39年をこれに当てている。
魏志ぎし中国の正史『三国志』の魏書のこと。
ここでは魏志倭人伝を指す。
難斗米なんとめ魏志倭人伝では「難升米(なしめ)」。
日本書紀の引用では「斗」の字になっている。
鄧夏とうか帯方郡の太守。
魏志倭人伝では「劉夏(りゅうか)」。
制詔みことのり皇帝の命令書。
狗奴国くぬこく倭の女王国と対立していた国。
※本ページ記載の引用部分には登場しないが関連重要語
黄幢こうどう黄色の旗。軍事的権威の象徴(※同上)。
泰初二年たいしょにねん晋の武帝の年号「泰始(たいし)二年」のことで266年。
台与(または壱与)が晋に遣使した年。
重訳ちょうやく複数の言語を中継して通訳すること。
倭から晋まで何か国もの通訳を経由するほど遠いことを意味する。
女王じょおう泰初二年の記事では「倭女王」とのみ記す。
魏の時代の卑弥呼は247年に死去している。
泰初二年(266年)の「女王」は台与(とよ)とする説が有力。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 日本書紀は卑弥呼・台与を神功皇后と直接同定しているわけではなく、「魏志云」「晋起居注云」として中国側の記録を傍証として引用注記した形式である
  • 神功皇后摂政39年・40年・43年の注記は、魏志倭人伝の景初三年(239年)・正始元年(240年)・正始四年(243年)の記事に対応する
  • 神功皇后摂政66年の注記は「晋起居注」を出典として引用しており、晋書倭人伝の「泰始初」の遣使記事(266年)に対応する

💬 解釈が分かれる箇所

日本書紀の編纂者の意図

「一云(あるいはいう)」という注記の形で中国史書の女王記事を引用した編纂者の意図について。
「卑弥呼=神功皇后」だと暗に主張したかったとする説と、単に年代を合わせるための参考資料として付記しただけで同一視はしていないとする説がある。

年代の引き下げ(干支二運ずれ)

日本書紀の紀年(神功皇后39年)にそのまま西暦を当てはめると239年になるが、神功皇后に関わる他の記述(百済王の記録など)と照合すると、実際の出来事は120年(干支2巡分)後の4世紀半ばの出来事であるという説が有力。
編纂者が意図的に年代を120年遡らせ、魏志の年代に合わせたのではないかと疑われている。

「難斗米」「鄧夏」などの字の違い

魏志では「難升米」「劉夏」であるが、日本書紀では字が異なる。
これが当時の日本に伝わっていた魏志の写本のバージョン違いによるものか、編纂者の誤写・改変によるものかは不明。

🔍 未解決の仮説・問い

  • 日本書紀の編纂者(8世紀)は「卑弥呼」という存在をどのように認識していたのか。国内の伝承として卑弥呼に相当する人物の記憶が残っていたのか、それとも中国の史書を読んで初めて知ったのか。
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