『晋書』巻97「四夷伝・倭人」を収録する。宣帝による公孫氏平定後の卑弥呼の遣使(238年)・文帝作相・泰始年間(265〜266年)の記事を含む。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 晋書(しんじょ) |
| 巻・章 | 巻97 列伝第67 四夷伝 倭人 |
| 分類 | 中国正史(二十四史のひとつ、紀伝体) |
| 著者 | 房玄齢ら |
| 成立年 | 648年 |
| 底本 | ウィキソース(zh.wikisource.org) |
| 参照URL | https://zh.wikisource.org/wiki/晉書/卷097 |

原文
倭人在帶方東南大海中依山島爲國地多山林無良田食海物
舊有百餘小國相接至魏時有三十國通好戶有七萬
男子無大小悉黥面文身自謂太伯之後又言上古使詣中國皆自稱大夫
昔夏少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭人好沈沒取魚亦文身以厭水禽計其道里當會稽東冶之東其男子衣以橫幅但結束相連略無縫綴
婦人衣如單被穿其中央以貫頭而皆被髮徒跣其地溫暖俗種禾稻紵麻而蠶桑織績
土無牛馬有刀楯弓箭以鐵爲鏃有屋宇父母兄弟臥息異處食飲用俎豆
嫁娶不持錢帛以衣迎之死有棺無槨封土爲塚
初喪哭泣不食肉已葬舉家入水澡浴自潔以除不祥其舉大事輒灼骨以占吉凶不知正歲四節但計秋收之時以爲年紀人多壽百年或八九十
國多婦女不淫不妒無爭訟犯輕罪者沒其妻孥重者族滅其家舊以男子爲主漢末倭人亂攻伐不定乃立女子爲王名曰卑彌呼
『晋書』巻97 列伝第67 四夷伝 倭人
宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帶方朝見其後貢聘不絕
及文帝作相又數至
泰始初遣使重譯入貢
書き下し文
倭人は帯方の東南、大海の中、山島に依りて国と為す。地は山林多くして、良田なし。海物を食す。旧、百余の小国相い接して、魏の時に至り、三十国通好し、戸七万あり。
男子は大小となく、悉く顔と体に黥(いれずみ)し文身す。自ら「太伯の後なり」と謂(い)い、また上古、中国に使(つかい)を詣でし者はみな自ら「大夫」と称したと言う。昔、夏の少康の子、会稽に封じられ、断髪し文身して蛟龍の害を避けたるが、今、倭人が沈没して魚を取ることを好み、また文身して水禽を厭(しりぞ)けるも同じ。
その道里を計るに、会稽・東冶の東に当たるべし。その男子の衣は横幅を以て、ただ束ねて相い連ぬるのみ、略(おおよそ)縫綴(ほうてつ)なし。婦人の衣は単被のごとく、その中央を穿(うが)ちて以て頭を貫き、みな髪を被(かぶ)りて徒跣(とせん)。その地は温暖にして、俗、禾・稲・紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑・機織す。土に牛馬なく、刀・楯・弓箭あり、鉄を以て鏃と為す。屋宇あり、父母・兄弟は臥息を異にす。食飲には俎豆を用う。嫁娶は銭帛を持たず、衣を以てこれを迎う。死するや棺あり槨なし、土を封じて塚と為す。初喪(しょそう)には哭泣して肉を食わず、すでに葬りて家挙(こぞ)りて水に入り、澡浴(そうよく)して自ら潔めて不祥を除く。
その大事を挙ぐるに、輒(すなわ)ち骨を灼きて吉凶を占う。正歳・四節を知らず、ただ秋収の時を計りて年紀と為す。人は多く寿百年、あるいは八・九十に至る。国に婦女多く、淫ならず妒(ねた)まず、争訟なし。軽罪を犯す者はその妻孥(さいど)を没し、重き者はその家族を族滅す。
旧は男子を以て主と為す。漢末、倭人乱れ、攻伐して定まらず、乃ち女子を立てて王と為す、名を卑彌呼と曰う。
宣帝(せんてい)の公孫氏を平らぐるや(238年)、その女王、使を帯方に遣わして朝見す。その後、貢聘(こうへい)絶えず。文帝(ぶんてい)の作相するに及び(255〜265年)、また数至る。泰始の初め(265〜274年)、使を遣わして重訳(じゅうやく)して入貢す。
現代語訳
倭人は帯方郡の東南の大海の中、山島を依りとして国を作る。土地には山林が多く、良田は少ない。海の産物を食べる。かつて百余りの小国が接していたが、魏の時代には三十国が通好し、戸数は七万あった。
男子は大小となく、みな顔や体に入れ墨をする。自ら「太伯の後裔である」と言い、また上古に中国へ使者を送った者は、みな「大夫」と自称したと言う。昔、夏の少康の子が会稽に封じられ、断髪・入れ墨をして蛟龍の害を避けたが、今の倭人が水に潜って魚を取るのを好み、入れ墨で水禽を払うのも同様であると〔注釈者は〕解釈する。
道里を計算すると、会稽・東冶の東にあたる。男子の衣は横幅の布を結び付けるのみで、ほとんど縫い目がない。婦人の衣は一枚の布のようなもので中央を穿って頭から被り、みな髪を垂らして素足である。土地は温暖で、禾・稲・苧麻(ちょま)を種え、蚕桑・機織もする。土には牛馬がなく、刀・楯・弓箭があり、鏃には鉄を使う。屋宇があり、父母・兄弟は別々に臥する。食事には俎豆を用いる。嫁娶に銭帛は使わず、衣を持参して迎える。死者には棺はあるが槨はなく、土を盛って塚を作る。初喪では哭泣して肉を食べない。埋葬が終わると家族全員で水に入って沐浴し、自らを清めて不祥を除く。
大事があるときは骨を焼いて吉凶を占う。正しい歳旦・四季を知らず、ただ秋の収穫の時を以て年としている。長命者が多く、百歳、あるいは八、九十歳に達する。国には婦女が多く、淫らでなく嫉妬もしない。争訟がなく、軽罪は妻子を没収し、重罪は一族を滅ぼす。
以前は男子が〔王として〕主であったが、漢末に倭人が乱れ、攻め合って定まらなかった。そこで女子を王に立て、名を卑彌呼といった。
宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定したとき〔238年〕、その女王〔卑弥呼〕は帯方郡に使者を送って朝見した。その後も貢聘は絶えなかった。文帝(司馬昭)が摂政となったとき〔255〜265年〕にもまた数度訪れた。泰始の初め〔265〜266年頃〕、重ねて通訳を経て使者を送って朝貢した。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 夏少康之子封於會稽 | かのしょうこうのこをかいけいにふうず | 夏の少康の子・無余が会稽に封じられたという伝説。 断髪文身が入れ墨の起源とする類比。 |
| 宣帝之平公孫氏 | せんていのこうそんしをたいらぐ | 238年、魏の司馬懿(宣帝)が遼東の公孫淵を平定。 これを機に帯方郡が魏直轄に。 |
| 文帝作相 | ぶんていさっしょう | 司馬昭(文帝)が魏の摂政として実権を握った期間(255〜265年)。 |
| 泰始初 | たいしのはじめ | 晋の武帝(司馬炎)の年号。265〜274年。 |
| 重譯 | じゅうやく | 言語が通じないため複数の通訳を経る外交形態。 遠方との交流を示す。 |
| 俎豆 | そとう | 木製・陶製の祭器・食器。 「籩豆」「俎豆」と記す史料により微妙な差異あり。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 宣帝(238年)の公孫氏平定後に卑弥呼が帯方郡に使者を送ったことが晋書に記録されている
- 文帝期・泰始年間(265〜274年)に倭からの使者が訪れたことが記されている
- 「太伯之後」の自称が晋書にも記されており(梁書と共通)、倭側の外交姿勢を示す

💬 解釈が分かれる箇所
- 「宣帝之平公孫氏也其女王遣使」の年代
-
公孫淵が誅されたのは238年だが、卑弥呼の魏への使節は魏志では景初二年(238年)または三年(239年)とされる。
晋書の記述は年代の確定に直接使えるが、晋書自体が魏志を参照しているため独立した証拠とはなりにくい。 - 泰始初の使節と倭の政情
-
泰始年間(265〜274年)の使者記録は晋書独自の情報であり、この時期の倭(壹与政権か男王政権か)の状況を示す重要な手がかり。
266年の「倭女王使を晋に送る」(日本書紀には記載なし)に対応するとも考えられる。あわせて読みたい
日本書紀とは? 舎人親王らが720年に撰上した日本最古の勅撰国史『日本書紀』の解説。神功皇后紀に魏志倭人伝の卑弥呼・台与記事を引用・注記し、邪馬台国研究では卑弥呼=神功皇后説の根拠・批判双方に引用される。 - 「地多山林無良田食海物」
-
良田が少なく海産物を食べるという記述が北九州を示唆するとする説と、列島全体の概括とする説がある。
🔍 仮説段階(要注意)
- 晋書の倭人伝は魏志のほぼ転写で構成されているが、泰始年間の記事は独自情報の可能性がある。これがどの先行記録に基づくかは未確認。
- 「文帝作相又数至」は司馬昭の摂政期(255〜265年)の複数回の来訪を示唆する。これを裏付ける年号・使節の詳細は晋書には記されていない。


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