『宋書』巻97「東夷・倭国」列伝第57を収録する。倭の五王(讃・珍・済・興・武)の外交記録と、武の上表文全文を含む。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 宋書(そうじょ) |
| 巻・章 | 巻97 列伝第57 東夷 倭国 |
| 分類 | 中国正史(二十四史のひとつ、紀伝体) |
| 著者 | 沈約(しんやく) |
| 成立年 | 488年(本紀・列伝) |
| 底本 | ウィキソース(zh.wikisource.org) |
| 参照URL | https://zh.wikisource.org/wiki/宋書/卷97 |

原文
倭國在高驪東南大海中世修貢職
高祖永初二年詔曰:「倭讚萬里修貢遠誠冝甄可賜除授」
太祖元嘉二年讚又遣司馬曹達奉表獻方物讚死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
表求除正詔除安東將軍倭國王
珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死世子興遣使貢獻
世祖大明六年詔曰:「倭王世子興奕世載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王」興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰:「封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋涉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歲臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫而句驪無道圖欲見吞掠抄邊隸虔劉不已每致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此疆敵克靖方難無替前功竊自假開府儀同三司其餘咸各假授以勸忠節」
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
『宋書』卷97 列傳第57 夷蛮 東夷
書き下し文
倭国は高驪の東南、大海の中に在りて、世々(よよ)貢職(こうしょく)を修む。
高祖(こうそ)永初二年(421年)、詔して曰く:「倭の讃(さん)は万里修貢し、遠誠(えんせい)は宜(よろ)しく甄(えら)ばれるべし。除授(じょじゅ)を賜うべし」と。
太祖(たいそ)元嘉二年(425年)、讃はまた司馬曹達(しばそうたつ)を遣わして表(ひょう)を奉じて方物(ほうもつ)を献ず。
讃死して弟珍(ちん)立つ。使を遣わして貢献し、自ら「使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称す。
表して除正(じょせい)を求む。詔して安東将軍倭国王に除す。
珍また、倭の隋(すい)ら十三人を平西(へいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍(かんぐん)・輔国将軍号(ほこくしょうぐんごう)に除正するを求む。詔して並びに聴す。
二十年(443年)、倭国王・済(せい)、使を遣わして奉献す。また安東将軍倭国王と為す。
二十八年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍の号を加えること故の如くにして、并せて上る所の二十三人を軍郡(の官)に除す。
済死して世子(せいし)興(こう)、使を遣わして貢献す。
世祖(せいそ)大明六年(462年)、詔して曰く:「倭王世子・興は奕世(えきせい)忠を載(の)せ、外海に藩(はん)を作し、化(か)を稟(う)けて境を寧(やす)んじ、貢職を恭しく修め、新たに辺業(へんぎょう)を嗣(つ)ぐ。宜しく爵号を授くべし。安東将軍倭国王とすべし」と。
興死して弟武(ぶ)立つ。自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称す。
順帝(じゅんてい)昇明二年(478年)、使を遣わして上表して曰く:
「封国(ほうこく)は偏遠(へんえん)にして、外に藩(はん)を作す。昔より祖禰(そぬい)は躬(み)ずから甲冑(かっちゅう)を擐(つら)ぬいて、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)するに遑(いとま)あらず。東に毛人(もうじん)五十五国を征し、西に衆夷(しゅうい)六十六国を服し、渡りて海北(かいほく)九十五国を平らぐ。王道(おうどう)融泰(ゆうたい)にして、廓土(かくど)は遐畿(かき)に及ぶ。累葉(るいよう)朝宗(ちょうそう)し、歳に愆(あやま)らず。
臣は下愚(かぐ)なれども、忝(かたじけな)くも先緒(せんしょ)を胤(つ)ぎ、統する所を駆率(くそつ)して、天極(てんきょく)を崇(あが)むるに帰せり。道遥かにして百済に装治(そうじ)して船舫(ふなふせぎ)せんとするも、句驪(くり)無道にして、見(まみ)えて吞(の)まんと図り、辺隷(へんれい)を掠抄(りゃくしょう)して虔劉(けんりゅう)して已まず、毎(つね)に稽滞(けいたい)を致して良風(りょうふう)を以て失す。路を進むと雖も或いは通じ或いは通ぜず。
臣が亡考(ぼうこう)・済は実に寇讎(こうしゅう)が天路(てんろ)を壅塞(ようそく)するを忿(いか)りて、弦(つる)を控(ひ)く者百万、義声(ぎせい)感激し、方(まさ)に大挙せんとして、奄(たちまち)に父兄を喪(うしな)い、垂成(すいせい)の功をして一簣(いっき)も獲(え)ざらしめたり。諒闇(りょうあん)に居にして兵甲(へいこう)を動かさず。是を以て偃息(えんそく)して未だ捷(か)たず、今に至れり。
今こそ甲(よろい)を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士・虎賁(こほん)、文武の功を効(いた)し、白刃(はくじん)前に交わるも亦た顧みる所にあらず。若し帝徳(ていとく)の覆載(ふくさい)を以て、この疆敵(きょうてき)を摧(くだ)き、方難(ほうなん)を克靖(こくせい)し、前功(ぜんこう)に替(か)わらずんば、竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司(かいふいどうさんし)と假(か)り、その余も咸(みな)各々假授(かじゅ)して以て忠節を勧めんとする所なり」と。
詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に除す。
現代語訳
倭国は高驪(こうくり)〔高句麗〕の東南、大海の中にあり、代々貢ぎ物を修めその職分(属臣の務め)を果たしてきた。
高祖(こうそ)〔宋の初代皇帝・武帝〕の永初二年(421年)、詔して言った:「倭の讃(さん)は万里の彼方から修貢し、その遠誠(えんせい)〔遠方からの誠意〕は表彰に値する。除授(じょじゅ)〔官職の任命〕を賜うべし」。
太祖(たいそ)〔二代・文帝〕の元嘉二年(425年)、讃はまた司馬(しば)曹達(そうたつ)を遣わして表(ひょう)〔上申書〕を奉り、方物(ほうもつ)〔地方の産物〕を献じた。
讃が死に、弟の珍(ちん)が立った。使者を遣わして貢献し、自ら「使持節都督(しじせつととく)倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称した。
表を提出して正式な任命(除正:じょせい)を求めた。詔して安東将軍倭国王に任じた〔「安東大将軍」の自称は認められず「安東将軍」に格下げされた〕。
珍はまた、倭の隋(すい)ら十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍(の称号)に正式任命するよう求めた。詔してともに(その求めを)聴(ゆる)した。
(元嘉)二十年(443年)、倭国王・済(せい)が使者を遣わして奉献した。(宋は)また(済を)安東将軍倭国王とした。
(元嘉)二十八年(451年)、(使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事)安東将軍(の称号は)そのままに、(加えて)申請した二十十三人を軍・郡(の官)に任じた。
済が死に、世子(せいし)〔嫡男〕の興(こう)が使者を遣わして貢献した。
世祖(せいそ)〔孝武帝〕の大明六年(462年)、詔して言った:「倭王の世子・興は、代々を重ねて忠を尽くし、外海に藩国(はんこく)をなし、(中国の)化(か)〔文化・教化〕を受けて境を安んじ、貢職(こうしょく)を恭しく修め、辺業(へんぎょう)〔辺境の統治〕を新たに継いだ。爵号(しゃくごう)を授けるべし。安東将軍倭国王とすべし」。
興が死に、弟の武(ぶ)が立った。自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称した。
順帝(じゅんてい)の昇明二年(478年)、使者を遣わして上表(じょうひょう)〔皇帝への文書〕した。(その内容は以下の通り:)
「(我が)封国(ほうこく)は遠くへだたり、外に藩(はん)をなしております。昔より祖先・父祖(そぞ)は躬(み)ずから甲冑(かっちゅう)を纏い、山川を跋渉(ばっしょう)〔乗り越えて歩き〕して、安らかにいる暇もありませんでした。東には毛人(もうじん)五十五国を征し、西には衆夷(しゅうい)六十六国を服し、渡って海北(かいほく)の九十五国を平らげました。(これにより)王道(おうどう)は(宋の)泰(おだや)かさに融け合い、領土は遥かに広がりました。代々朝宗(ちょうそう)〔宋の朝廷に朝貢〕し、(年ごとに)誤りなく続けてまいりました。
臣は下愚(かぐ)〔愚かな者〕ながらも先緒(せんしょ)〔先祖の事業〕を継ぎ、率いる者どもを統べてまいりました。しかし、百済(を経由して宋へ向かう道を)装治(そうじ)〔船を整えて進もう〕とすると、句驪(くり)〔高句麗〕が非道にも(我らを)呑み込もうと図り、辺境の隷従国を侵略し続けて止まず、そのたびに(朝貢が)遅滞して良風(りょうふう)〔好機・順風〕を失ってまいりました。進路はあるいは通じ、あるいは通じませんでした。
亡き父の済(せい)は、まことに寇讎(こうしゅう)〔敵〕が天路(てんろ)〔宋への道〕を塞ぐことを憤り、弓を引く者百万(の大軍)、義声(ぎせい)に感激し奮い立ち、まさに大挙(たいきょ)しようとした矢先、父兄(先代)を失い、成し遂げかけた功がわずか一歩で完成に至りませんでした。諒闇(りょうあん)〔喪中〕にあって軍を動かさず、そのために(戦を)偃息(えんそく)したまま今日に至っております。
今こそ鎧(よろい)を磨き、兵を整え、父兄の志を申べ(のべ)たいと存じます。義士・虎賁(こほん)〔勇士〕、文武の臣が功を竭(つく)し、白刃(はくじん)が交わる前にあっても顧みないところです。もし帝徳(ていとく)が覆い護ってくださるならば、この強敵を打ち砕き、方難(ほうなん)を平定し、前功(ぜんこう)を継ぐことができます。自ら(仮に)開府儀同三司(かいふいどうさんし)と称しており、(家臣の)その余の者もおのおの(仮に称号を)授けて忠節を勧めているところであります」。
詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任じた。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 安東将軍 安東大将軍 | あんとうしょうぐん あんとうだいしょうぐん | 「東方を鎮める(大)将軍」。 南朝が周辺外国王に授ける称号のひとつ。 大将軍の方が位が上。 同様の称号に「安西」「安南」「安北」がある。 |
| 讃・珍・済・興・武 | さん・ちん・せい・こう・ぶ | 宋書に記された倭の五王の名。 それぞれ日本の何天皇に相当するかについては諸説がある。 ※「珍」は異体字の「珎」と表記されることもある。 |
| 司馬曹達 | しばそうたつ | 讃が元嘉二年(425年)に遣わした使者。 「司馬」は官職名。 |
| 毛人 | もうじん | 体毛の多い人々、または蝦夷(えぞ)などを指すとされる。 「東征毛人」の「東征」は日本列島東方への征討を指すとも解釈される。 |
| 衆夷 | しゅうい | 西方の異民族・諸国。 「西服衆夷六十六国」の比定は不明。 |
| 海北 | かいほく | 海の北側。 「渡平海北九十五国」は朝鮮半島方面への征討を指すとされる。 |
| 句驪 | くり | 高句麗(こうくり)の別表記。 |
| 良風 | りょうふう | 季節風・順風。宋への渡航に適した時季の風を指す。 遣隋使・遣唐使も同様の季節風に依存していた。 |
| 諒闇 | りょうあん | 天子・父親などの喪中に服する期間。 喪中は軍事行動を控えるのが慣例。 |
| 開府儀同三司 | かいふいどうさんし | 官府を独立して設ける権限を持つ。 三司(最高位の官)と同等の扱いを受ける。 武が「自ら仮に称した」としており、宋への認可申請の一部。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 倭の五王(讃・珍・済・興・武)が宋と外交関係を持ったことが記録されている
- 武の上表(478年)は現存する倭からの外交文書として最も詳細なものである
- 武が自称した称号(七国諸軍事)に百済が含まれているが、宋が認可した称号(六国諸軍事)には百済が含まれていない
- 珍は「安東大将軍」を自称したが、宋は「安東将軍」のみを認可した(称号の格を一段落とした)
💬 解釈が分かれる箇所
- 倭の五王は日本書紀・古事記のどの天皇に対応するか
-
各王の比定には複数の説がある。特に「讃」と「珍」の対応については研究者によって主張が大きく異なる。
宋書の王名 有力な比定説(一例) 讃(さん) 仁徳天皇・反正天皇・履中天皇など諸説あり 珍(ちん) 反正天皇・仁徳天皇など諸説あり 済(せい) 允恭天皇 興(こう) 安康天皇または雄略天皇 武(ぶ) 雄略天皇(最有力) ※「武=雄略天皇」説は、稲荷山古墳出土鉄剣銘文(471年推定)に「獲加多支鹵大王(わかたける)」の名があることとの対応から最も支持されている
- 「東征毛人五十五国・西服衆夷六十六国・渡平海北九十五国」の実態について
-
日本列島・朝鮮半島方面への軍事活動を示すとする解釈がある一方で、外交上の誇張・定型表現とする説もある。
「五十五国」「六十六国」「九十五国」という数字の根拠も不明。 - 「百済」が認可外となった理由について
-
武の自称には百済が含まれていたが、宋の認可からは百済が外された。
当時百済も宋と独自に外交関係を持つ独立国であったため、宋が倭の百済への軍事権を認めることを避けたとする説が有力。 - 宋書の倭国伝と邪馬台国の時代的距離について
-
宋書が扱う5世紀の倭は、邪馬台国・卑弥呼の時代(3世紀前半)から約150〜200年後であり、国家体制が大きく変化している可能性がある。
邪馬台国論争の直接的な史料としては使いにくいが、倭の国家形成過程を考える上では重要。
🔍 仮説段階(要注意)
- 上表文は外交文書の定型に沿ったものであり、「東征毛人〜」の実態を額面通りに受け取ることへの留保が必要
- 五王の名前が漢字一字であることが、日本語の名前・称号の音訳なのか漢字で直接表したものなのか不明

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