梁書【倭条】原文と現代語訳

梁書巻54列伝第48「倭条」の全文原文・書き下し文・現代語訳。「太伯の後裔」説・道程記事・卑弥呼・倭の五王・周辺国を含み、魏志から宋書・南斉書までを集約した6〜7世紀成立の総合史料。

『梁書』巻54「諸夷・東夷・倭」を収録する。「太伯之後」の書き出し・景初三年表記・臺與・倭の五王までの通史的叙述を含む。

目次

史料データ

項目内容
書名梁書(りょうしょ)
巻・章巻54 列伝第48 諸夷海南諸国東夷西北諸戎
分類中国正史(二十四史のひとつ、紀伝体)
著者姚思廉(ようしれん)
成立年629年(唐・貞観3年)
底本中国哲学書電子化計画(ctext.org)
参照URLhttps://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=26343

原文

【倭の自称・概観・道程】

倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里大抵在會稽之東相去絕遠
從帶方至倭循海水行歷韓國乍東乍南七千餘里始度一海
海闊千餘里名瀚海至一支國
又度一海千餘里名未盧國
又東南陸行五百里至伊都國
又東南行百里至奴國
又東行百里至不彌國
又南水行二十日至投馬國
又南水行十日陸行一月日至祁馬臺國即倭王所居
其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮

『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎

【産物・動植物】

民種禾稻籥麻蠶桑織績有姜桂橘椒蘇
出黑雉真珠青玉
有獸如牛名山鼠
又有大蛇吞此獸蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣
物產略與儋耳朱崖同

『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎

【風俗・婚姻・死制】

地溫暖風俗不淫男女皆露紒
富貴者以錦繡雑采為帽似中國胡公頭
食飲用籩豆其死有棺無槨封土作塚
人性皆嗜酒俗不知正歲多壽考多至八九十或至百歳
其俗女多男少貴者至四五妻賤者猶兩三妻婦人無淫妒無盜竊少諍訟
若犯法輕者没其妻子重則滅其宗族

『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎

【歴史的記事:倭国乱・卑弥呼・魏への遣使】

漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子卑彌呼為王
彌呼無夫婿挾鬼道能惑衆故國人立之
有男弟佐治國自為王少有見者以婢千人自侍唯使一男子出入傳教令
所處宮室常有兵守衛

至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢
魏以為親魏王假金印紫綬
正始中卑彌呼死更立男王國中不服更相誅殺
復立卑彌呼宗女臺與為王其後復立男王並受中國爵命

『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎

【晋代〜南朝:倭の五王】

晋安帝時有倭王贊
贊死立弟彌
彌死立子濟
濟死立子興
興死立弟武
齊建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍
高祖即位進武號征東將軍

『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎

【周辺の異民族・島国】

其南有侏儒國人長三四尺
又南黑齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至
又西南萬里有海人身黑眼白裸而醜其肉美行者或射而食之

文身國在倭國東北七千餘里人體有文如獸其額上有三文文直者貴文小者賤
土俗歡樂物豊而賤行客不齎糧有屋宇無城郭
其王所居飾以金銀珍麗繞屋為緌廣一丈實以水銀雨則流于水銀之上
市用珍寶犯輕罪者則鞭杖犯死罪則置猛獸食之有枉則猛獸避而不食經宿則赦之

大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異

『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎

書き下し文

【倭の自称・概観・道程】

倭の者は自ら「太伯(たいはく)の後なり」と云う。俗はみな文身す。帯方を去ること万二千余里。大抵、会稽の東にして、相い去ること絶遠なり。

帯方より倭に至るには、海水に循(したが)いて行き、韓国を歴て乍(たちまち)ち東、乍ち南に七千余里、始めて一海を度る。海の闊(ひろ)さ千余里、瀚海(かんかい)と名づく。一支国に至る。また一海を度ること千余里、未盧国に至る。また東南、陸行五百里、伊都国に至る。また東南に百里、奴国に至る。また東に百里、不弥国に至る。また南、水行二十日、投馬国に至る。また南、水行十日・陸行一月にして祁馬臺国に至る。すなわち倭王の居る所なり。その官、伊支馬あり、次を彌馬獲支と曰い、次を奴往鞮と曰う。

【産物・動植物】

民は禾・稲・籥・麻・蚕桑を種(う)えて績(つむ)ぎ織る。生姜・桂・橘・椒・蘇あり。黒雉・真珠・青玉を産す。牛のごとき獣あり、山鼠と名づく。また大蛇あってこの獣を吞む。蛇の皮は堅くして斫(き)るべからず、その上に孔(あな)あり、乍ち開き乍ち閉じ、時あるいは光を射、これに中(あた)れば蛇すなわち死す。物産は略(おおよそ)儋耳・朱崖と同じ。

【風俗・婚姻・死制】

地は温暖にして、風俗は淫らならず。男女みな露紒(ろけい)す。富貴の者は錦繡雑采を以て帽と為し、中国の胡公頭に似る。食飲に籩豆を用う。その死するや、棺あり槨なし、土を封じて塚を作る。人の性みな酒を嗜む。俗、正歳を知らず、多く寿考す、八・九十に至る者多く、あるいは百歳に至る。その俗、女多く男少なし。貴者は四・五妻に至り、賤者もなお両・三妻あり。婦人は淫妒なく、盗竊なく、争訟少なし。法を犯す者、軽ければその妻子を没し、重ければその宗族を滅ぼす。

【歴史的記事:倭国乱・卑弥呼・魏への遣使】

漢の霊帝・光和の中(178〜184年)、倭国乱れ、相い攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて卑彌呼を王と為す。彌呼に夫婿なく、鬼道を挾みて能く衆を惑わす。故に国人これを立つ。男弟あり、佐けて国を治む。自ら王と為りて少しく見ゆる者あり。婢千人を以て自ら侍らしめ、ただ男子一人を出入させて教令を伝う。居処する宮室には常に兵これを守衛す。

魏の景初三年(239年)に至り、公孫淵誅せられた後、卑彌呼始めて使を遣わして朝貢す。魏、親魏王と為し、金印紫綬を仮う。正始の中(240〜249年)、卑彌呼死すると更に男王を立てるに国中服せず、更に相い誅殺す。また卑彌呼の宗女・臺與を立てて王と為す。その後また男王を立て、並びに中国の爵命を受く。

【晋代〜南朝:倭の五王】

晋の安帝の時、倭王・贊あり。贊死して弟の彌立つ。彌死して子の濟立つ。濟死して子の興立つ。興死して弟の武立つ。斉の建元の中(479〜482年)、武に持節都督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍を除す。高祖(梁の武帝)即位するにあたり、武の号を進めて征東将軍と為す。

【周辺の異民族・島国】

その南に侏儒国あり、人の長三・四尺。また南に黒歯国・裸国あり、倭を去ること四千余里、船行すること一年にして至るべし。また西南万里に海人あり、身は黒く、目は白く、裸にして醜く、その肉美なり。行く者あるいは射りてこれを食う。

文身国は倭国の東北七千余里にあり、人の体に文あること獣のごとく、その額の上に三文あり、文の直なる者は貴く、文の小なる者は賤し。土俗は歓楽し、物は豊かにして賤し、行客は糧を齎らさず、屋宇あり城郭なし。その王の居する所は金銀珍麗を以て飾り、屋を繞らして一丈の広さに水銀を実たし、雨に遭えば水銀の上を流れる。市では珍宝を用い、軽罪は鞭杖し、死罪は猛獣に食わしむ。枉り有ればすなわち猛獣避けてこれを食わず、一宿を経れば則ち赦す。

大漢国は文身国の東五千余里にあり、兵戈なく攻戦せず、風俗は並びに文身国と同じくして言語は異なる。

現代語訳

【倭の自称・概観・道程】

倭の者は自ら「太伯〔呉の祖〕の後裔である」と言う。風俗ではみな入れ墨をする。帯方郡から一万二千余里で、おおよそ会稽の東にあたり、互いに非常に遠く離れている。

帯方郡から倭へは、海岸沿いに行き、韓国を経て東や南へと七千余里、はじめて一つの海を渡る。海の幅は千余里で、瀚海(かんかい)と名づける。一支国(いっしこく)に至る。また一つの海を渡ること千余里で、末盧国(まつろこく)に至る。また東南に陸行五百里で伊都国(いとこく)に至る。また東南に百里で奴国(なこく)に至る。また東に百里で不弥国(ふみこく)に至る。また南に水行二十日で投馬国(とうまこく)に至る。また南に水行十日・陸行一月で祁馬臺国(きまたいこく)〔※邪馬臺国の誤写か〕に至る。ここが倭王の居所である。官には伊支馬(いきま)があり、次を彌馬獲支(みまかし)、次を奴往鞮(なわてい)という。

【産物・動植物】

民は禾・稲・籥(やく)〔※「紵(からむし)」の誤写か〕・麻・蚕桑を作って績を織る。生姜・桂・橘・椒・蘇を有する。黒雉・真珠・青玉を産する。牛のような獣があり、山鼠という。また大きな蛇があってこの獣を飲み込む。蛇の皮は堅くて切ることができず、その上に穴があって開いたり閉じたりし、時おり光を放ち、それが蛇に当たると蛇は死ぬ。産物はおおむね儋耳・朱崖と同じである。

【風俗・婚姻・死制】

気候は温暖で、風俗は淫らでない。男女ともに髪を露わに束ねる。富貴者は錦繍の雑采で帽をつくり、中国の胡公頭(こうこうとう)に似ている。食事には籩豆〔竹・木製の器〕を用いる。死者には棺はあるが槨はなく、土を盛って塚を作る。人の性質はみな酒を好み、暦を知らないが長命者が多く、八、九十歳や百歳に至る者もいる。

風俗では女性が多く男性が少ない。貴人は四、五人の妻を持ち、賤しい者でも二、三人は持つ。婦人は淫らでなく嫉妬もしない。盗みがなく、争訟も少ない。法を犯した者は、軽ければ妻子を没収し、重ければ一族を滅ぼす。

【歴史的記事:倭国乱・卑弥呼・魏への遣使】

漢の霊帝の光和年間〔178〜184年〕、倭国が乱れて互いに攻め合うこと数年、そこで一人の女子を共立して卑彌呼(ひみこ)を王とした。彌呼に夫婿はなく、鬼道を奉じて衆を惑わすことができたため、国人が立てた。男弟がいて国治を補佐し、彌呼自身は王として少ししか人に見られなかった。婢千人を侍らせ、ただ男子一人を出入りさせて命令を伝達させた。居処の宮室には常に兵が守衛していた。

魏の景初三年〔239年〕、公孫淵が誅されたのち、卑彌呼は始めて使者を送って朝貢した。魏は親魏王とし、金印紫綬を授けた。正始年間〔240〜249年〕に卑彌呼が死ぬと、男王が立てられたが国中が服せず、互いに誅し殺した。再び卑彌呼の宗女・臺與(たいよ)を立てて王とした。その後また男王が立てられ、ともに中国の爵命を受けた。

【晋代〜南朝:倭の五王】

晋の安帝の時に倭王・贊(さん)がいた。贊が死ぬと弟の彌(み)〔※宋書の「珍」の誤写とされる〕が立った。彌が死ぬと子の濟(さい)が立った。濟が死ぬと子の興(こう)が立った。興が死ぬと弟の武(ぶ)が立った。

斉の建元年間〔479〜482年〕に武を持節・督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍に除した。〔梁の〕高祖が即位するにあたり、武の号を征東将軍に進めた。

【周辺の異民族・島国】

その南に侏儒国(しゅじゅこく)がある。人の身長は三、四尺。また南に黒歯国・裸国があり、倭から四千余里、船行で一年かかると伝わる。また西南一万里に海人がいて、身体は黒く眼は白い。裸で醜く、肉は美味しいため、旅人が射て食べることもある。

文身国は倭国の東北七千余里にある。人の体に獣のような文様があり、額の上に三本の文がある。真っすぐな文は貴く、小さな文は賤しい。土俗は楽しく物が豊かで安い。旅人は食糧を持参しなくてよい。屋宇(おくう)はあるが城郭はない。王の居所は金銀珍麗で飾られ、屋の周囲に一丈の幅で水銀を満たした溝があり、雨が降ると水銀の上を流れる。市では珍宝を用いる。軽罪は鞭打ちで、死罪は猛獣に食わせる。冤罪であれば猛獣は避けて食わず、一夜を経ると赦される。

大漢国は文身国の東五千余里にある。兵器・戦争がなく、風俗は文身国と同じだが言語は異なる。

語注

語句読み解説
太伯之後たいはくのあと太伯は周の文王の伯父で呉の祖。
倭人が呉の末裔を自称したとする記述は梁書のみ。
祁馬臺國きまたいこく「祁」は「邪」の誤写(字形の混同)とするのが通説。
魏志「邪馬壹国」・後漢書「邪馬臺国」の梁書表記。
瀚海かんかい対馬海峡を指すとされる。
「瀚海」は本来モンゴルの砂漠・バイカル湖を指す語。
やく原文(底本)には「籥」とある。
他の史料(魏志など)との比較から「紵」の誤写?
光和中こうわちゅう漢霊帝の光和年間(178〜184年)。
倭国大乱の時期として記される。
景初三年けいしょさんねん
西暦239年
魏志では「景初二年(238年)」とする記述もある。
年代論争の核心になる部分。
公孫淵誅こうそんえんちゅう238年に魏が遼東の公孫淵を滅ぼした事件。
これにより帯方郡が魏の直轄に。
臺與たいよ卑弥呼の宗女。魏志は「壹與」と書く。
「臺」と「壹」の差は転写エラーか意図的か。
贊・彌・濟・興・武さん・み・さい・こう・ぶ倭の五王。
「彌」は宋書では「珍」。
草書体等の字形が似ていることによる誤写とする説が有力。
慕韓ぼかん梁書のみに登場する「慕韓」。
南斉書の「秦韓」に対応するか。
韓の一種族か。
征東將軍せいとうしょうぐん梁の高祖(武帝)が武に与えた爵号。
「鎮東」より格上。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 梁書は「太伯之後」という倭人の自称を記録した唯一の正史である
  • 「景初三年」(239年)に卑弥呼が初めて魏へ遣使したと記す
  • 倭の五王(贊・彌・濟・興・武)の系譜を「父→子」「兄→弟」関係で叙述している
  • 梁の高祖(武帝)が武に「征東将軍」を授けたことを記す(南斉書には記載なし)

💬 解釈が分かれる箇所

「彌」と「珍」の表記違い

梁書は五王の二人目を「彌」とするが、先行する宋書は「珍(珎)」としている。
これを別人と見る説もあるが、一般的には草書体などの字形が似ているための誤写とする説が有力である。

「景初三年」か「景初二年」か

魏志倭人伝には「景初二年」と「景初三年」の両記述があり、どちらが正確かは論争中。
梁書が「景初三年」とすることは、三年説の根拠の一つとされる。
ただし梁書(629年成立)は魏志より後の史料であり、転写誤りの可能性も否定できない。

「太伯之後」の信憑性

倭人が自ら呉の太伯の後裔を称したとする記述は梁書独自。
中国側が倭を中華文明の系譜に組み込むための修辞という解釈と、実際に倭の外交使節が自称したという解釈が並立する。
当時の倭が「呉」との文化的つながりを強調する外交戦略をとった可能性もある。

「臺與」表記の問題

梁書は卑弥呼の後継者を「臺與(たいよ)」と書く。
魏志正文には「壹與(いよ)」とある。
梁書が「臺」を使うのは、「邪馬臺国」表記と整合した意図的記述か、単なる写本上の転写差異かで見方が分かれる。
「臺与(とよ)」の読みも影響を受ける。

「慕韓」の存在

梁書は「秦韓・慕韓六国」とするが、南斉書は「秦韓」のみ。
「慕韓」は馬韓の別名か、単なる表記の揺れか、それとも梁書の固有資料に基づく情報かについて確定していない。

道程記事の独自性

梁書の道程記事は魏志をほぼ踏襲しているが、「伊支馬・彌馬獲支・奴往鞮」の官名や「山鼠・大蛇」の記述は微妙に異なり、魏略など別の先行文献を参照した可能性がある。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「太伯之後」という自称はいつ、どのような外交場面で倭側が主張したのか。また日本側の文献・考古資料でこれを裏付ける痕跡はあるか。
  • 「征東将軍」(梁の武帝が授けた号)は他の正史に記録がなく、梁書独自の情報である。この記録はどこから来ているか。
  • 「文身国」「大漢国」は架空の国か、実際の地理的実体を持つか。「文身国=日本列島北部」説もある。
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