風土記【末盧国・伊都国伝承】原文と現代語訳

713年の詔で編纂された『風土記』のうち、魏志倭人伝の道程に重なる『肥前国風土記』松浦郡(末盧国)と『筑前国風土記』逸文・怡土郡(伊都国)の原文と現代語訳。8世紀の九州における古代国家統合の伝承(神功皇后伝説)を収める。

『風土記』から、魏志倭人伝の道程に登場する「末盧国(まつろこく)」に該当する肥前国松浦郡と、「伊都国(いとこく)」に該当する筑前国怡土郡(逸文)の記述を収録する。邪馬台国時代の有力な独立国が、8世紀には神功皇后伝説に彩られた大和政権の版図として伝承されていた様子がわかる。

目次

史料データ

項目内容
書名風土記(ふどき)
対象箇所肥前国風土記 松浦郡 / 筑前国風土記(逸文) 怡土郡
成立年713年(和銅6年)の詔以降、奈良時代初期
分類地誌(公文書・地理・伝承記録)
底本国立国会図書館デジタルコレクション等

原文・現代語訳

肥前国風土記 松浦郡(末盧国)

松浦の郡(まつらのこほり)
本(もと)の字は末羅(まつら)
郷は五所、里は十一、駅は三所あり。昔、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、新羅の国を征(う)ちたまはむとして、此の郡(こほり)に下り到りて、玉嶋の里の小河の側(ほとり)に御食(みおし)したまひき。
(中略)
すなはち裳の糸を勾(ま)げ、飯の粒(いひぼ)を餌(えさ)として、河の水に投(う)ちて占ひて曰りたまひき。「朕(われ)、西の財(たから)の国を求めむとす。若し験(しるし)あらば、河の魚(いを)、此の針を飮め」とのりたまひて、すなはち竿を挙げたまへば、乃ち細鱗魚(あゆ)を得たまひき。
(中略)
其の時、尊、希(めづら)しき物なりと宣ひて、此の国を希(めづら)の国と謂ひき。今の人は訛(あやま)りて、松浦(まつら)の郡と喚(よ)ぶ。

『肥前国風土記』

松浦の郡(まつらのこおり)。
元の字は「末羅(まつら)」である。
郷が五か所、里が十一、駅が三か所ある。昔、気長足姫尊(息長帯比売命=神功皇后)が新羅の国を征伐しようとして、この郡に下り到着して、玉嶋の里の小川のほとりで食事をなされた。
(中略:皇后が針を作った様子)
そして裳の糸を曲げて釣り針とし、ご飯粒をエサとして、川の水に投げ入れて占って仰った。「私は、西の財宝の国(新羅)を求めようと思う。もし成功するしるしがあるならば、川の魚よ、この針を飲み込め」と仰って、竿を挙げられると、見事に鮎(あゆ)が釣れた。
(中略)
その時、皇后は「これは希(めづら)しい物だ」と仰って、この国を「めづらの国」と呼んだ。今の人は言葉が訛って、「松浦(まつら)の郡」と呼んでいる。

筑前国風土記 逸文 怡土郡(伊都国)

筑前國風土記云
怡土郡(いとのこほり)
昔、建内宿禰に命せて、異(け)しき国を平(むけ)しめたまふ時、此の郡に至りたまひき。五十迹手(いとて)、斯(こ)の事を聞き、すなはち八尺瓊(やさかに)を以て、磯松(いそまつ)の枝の末(ほつえ)に懸け、白銅鏡(ますそみのかがみ)を中つ枝に懸け、十握剣(とつかのつるぎ)を本(もと)の枝に懸けて、穴門(あなと)の引嶋(ひきしま)に迎へば、天皇、五十迹手を誉めて「伊蘇志(いそし)」と曰ふ。故、伊覩(いと)と曰ふ。五十迹手は是れ、高麗の意呂山(おろのやま)に天降(あまくだ)り来たる日桙(ひぼこ)が苗裔(すゑ)なり。

『肥前国風土記』

この逸文の「天皇」は仲哀天皇(神功皇后の夫)を指すとするのが一般的。
日本書紀では同様の説話が仲哀天皇・神功皇后紀に登場する。

筑前国風土記にいう。
怡土の郡(いとのこおり)。
昔、建内宿禰(武内宿禰)に命じて、異国を平定させようとした時、この郡に到着された。五十迹手(いとて)〔この地域の首長〕は、この事を聞き、すぐに八尺瓊(勾玉)を磯松の上の方の枝に懸け、白銅鏡を真ん中の枝に懸け、十握剣を根元の枝に懸けて、穴門の引島(現在の山口県彦島)に出迎えた。すると天皇は五十迹手を褒めて「伊蘇志(いそし=勤勉で立派だ)」と仰った。ゆえにこの地を「伊覩(いと)」という。五十迹手は、高麗(朝鮮半島)の意呂山(おろのやま)に天降ってきた日桙(天日槍)の子孫である。

語注

語句読み解説
末羅・松浦まつら現在の佐賀県唐津市周辺。
魏志倭人伝の「末盧国(まつろこく)」にあたる。
気長足姫尊おきながたらしひめ神功皇后(じんぐうこうごう)のこと。
風土記の九州説話の中心人物。
怡土・伊覩いと現在の福岡県糸島市周辺。
魏志倭人伝の「伊都国(いとこく)」にあたる。
建内宿禰たけうちのすくね古代大和政権の伝説的な重臣・将軍。
五十迹手いとて伊都国の王の後裔とされる人物。
大和政権に対して三種の神器を掲げて服属の意を示した。
日桙ひぼこ新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)のこと。
渡来系の神・人物。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 8世紀の初頭において、魏志倭人伝の「末盧国」は「松浦郡(まつらのこおり)」、「伊都国」は「怡土郡(いとのこおり)」という行政区画として認識されていた
  • 両地域ともに、神功皇后(および仲哀天皇)の新羅征討(三韓征伐)にまつわる伝承が地名由来として語られていた
  • 伊都国の首長(五十迹手)が渡来系(天日槍の末裔)を自称し、大和政権に恭順したという記憶が残されている

💬 解釈が分かれる箇所

五十迹手(いとて)と伊都国の関係

五十迹手が鏡・玉・剣(三種の神器の象徴)を掲げて出迎えたという描写は、かつて独立した「伊都国」の王(あるいはその末裔)が、新興の大和政権に対して完全に服属した儀式を神話化したものと解釈されています。
彼が新羅系渡来人の末裔とされている点は、伊都国が朝鮮半島との外交・交易の最前線(魏志倭人伝の「一大率」が置かれた場所)であった歴史的実態を反映していると考えられます。

神功皇后伝説と大和政権の九州平定

九州地方の『風土記』には、神功皇后に関わる地名由来説話が異常なほど多く登場します。
これは、4世紀から5世紀にかけて大和政権が九州北部を軍事・政治的に統合し、さらに朝鮮半島へ出兵していった歴史的記憶が、すべて「神功皇后のカリスマ」に集約されて地方に定着したためと考えられます。
邪馬台国(九州説)の崩壊と大和政権の進出を示す重要な民俗史料です。

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