天明4年(1784年)3月16日付で、志賀島村の庄屋・長谷川武蔵が書き留め、福岡藩役所へ提出した届け出書である。百姓・甚兵衛の申告内容を庄屋が記録した公文書であり、原本は現在所在不明(写しが伝来)。「漢委奴國王」金印の発掘状況・経緯を記した一次資料として重要視される。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 資料名 | 那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚 |
| 記録者 | 長谷川武蔵(庄屋) |
| 提出先 | 津田源次郎様御役所(福岡藩役所) |
| 作成年月日 | 天明四年(1784年)三月十六日 |
| 発見年月日 | 天明四年二月二十三日(口上書より) |
| 発見場所 | 筑前国那珂郡志賀島村 叶の崎(かなえのさき) |
| 分類 | 江戸時代公文書(口上書形式) |
| 現存状況 | 原本は所在不明。写しが伝来(大谷光男氏の調査による写真記録等) |

原文

那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚
私抱田地叶の崎と申所田境之中溝水行悪敷御坐候ニ付、先月廿三日、
右之溝形ヲ仕直シ可申迚岸を切落シ居候処、小キ石段々出候内弐人持程之石有之、
かな手子ニ而堀除ケ申候之処、石之間ニ光候物有之ニ付、
取上水ニ而ス々キ上見候処、金之印判之様成物ニ而御坐候、
私共見申タル儀モ無御坐品ニ御坐候間、私兄喜兵衛以前奉公仕居申候
福岡町家之方ヘ持参リ、喜兵衛見セ申候へハ、大切成品之由被申候ニ付、
其儘直シ置候処、昨十五日庄屋殿、右之品早速御役所江差出候様被申付候間、
則差出申上候、何レ宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上志賀島村百姓 甚兵衛 印
天明四年三月十六日
津田源次郎様
御役所
右甚兵衛申候通少モ相違無御坐候、右体之品掘出候ハ不差置、速ニ可申出儀ニ御座坐候処
うかと奉存、市中風説モ御坐候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御坐、
奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下願、奉願上候、以上同村庄屋 武蔵
同年同月 日 組頭 吉三
同 勘蔵津田源次郎様
『那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚』
御役所
現代語訳
【甚兵衛本文】
那珂郡志賀島村の百姓・甚兵衛が申し上げる口上の覚え書き。
私が所有する田地の、叶の崎と申す場所の田の境の中の溝の水の流れが悪くなっておりましたので、先月二十三日(二月二十三日)、その溝の形を直そうと岸を切り崩しておりましたところ、小石がだんだん出てきた中に二人がかりで持つほどの大石がございました。鉄てこで掘り除けましたところ、石の間に光るものがございましたので、取り上げて水で洗ってみますと、金の印判のようなものでございました。
私どもには見覚えのない品でございましたので、兄の喜兵衛がかつて奉公していた福岡の町家に持参し、喜兵衛に見せましたところ、「大切な品である」とのことでございました。そのままにしておりましたところ、昨十五日(三月十五日)に庄屋殿から、この品をすぐに役所へ差し出すよう申し付けられましたので、ただちに差し出しております。どのようにもよきようにお取り計らいくださいますようお願い申し上げます。以上。
志賀島村百姓 甚兵衛(印)
天明四年三月十六日 津田源次郎様御役所
【庄屋・組頭による奥書】
甚兵衛が申し上げた通りに相違ございません。このような品を掘り出したならばすぐに申し出るべきところ、うかつにも〔すぐに届けず〕市中に風説が広まるまで申し出ませんでしたことは、誠に不念(不注意)で申し上げようもなく、恐れ入ります。何とぞよきようにお取り計らいくださいますようお願い申し上げます。以上。
同村庄屋 武蔵
天明四年同月 日 組頭 吉三・同 勘蔵
発見の経緯(口上書より復元)
甚兵衛、叶の崎の田地で溝の水路工事中に金印を発掘。
兄・喜兵衛の伝手で福岡の町家の識者に見せる。
「大切な品」と判断される。
庄屋殿より役所へ差し出すよう指示。
甚兵衛、口上書とともに金印を役所へ提出。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 口上之覚 | こうじょうのおぼえ | 口頭申告を文書化したもの。 江戸期の役所届け出書の定型形式。 |
| 私抱田地 | わたくしかかえたじ | 自分が所有・耕作する田地。 |
| 叶の崎 | かなえのさき | 発見場所。志賀島の南西部の地名。 現在「金印公園」として整備されている。 |
| 先月廿三日 | せんげつにじゅうさんにち | 天明4年2月23日。発掘日。 |
| かな手子 | かなてこ | 鉄製のてこ(pry bar)。 農作業に用いる道具。 |
| 弐人持程之石 | ふたりもちほどのいし | 二人がかりで持つほどの大きさの石。 |
| 印判之様成物 | いんばんのようなるもの | 印章のような形のもの。 甚兵衛は「印判のようなもの」と表現。 |
| 不念 | ふねん | 不注意・うかつ。 庄屋が遅延届け出を謝罪する文言。 |
| 市中風説 | しちゅうふうせつ | 世間の噂・風聞。 届け出前に金印発見の情報が広まっていたことを示す。 |
| 奥書 | おくがき | 文書の末尾に庄屋・組頭が副署した証明文。 |
| 津田源次郎 | つだげんじろう | 福岡藩の地方役人(代官所役人)。 届け出の宛先に当たる人物。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 天明4年(1784年)2月23日に、那珂郡志賀島村の叶の崎で甚兵衛が溝工事中に金印を発掘したことが届け出書で確認される
- 発見から届け出まで約三週間を要し、その間に「市中に風説が広まった」ことが庄屋の奥書に記されている
- 金印は福岡の識者に「大切な品」と判断された後、庄屋の指示で役所へ提出された
- 届け出書は甚兵衛の署名・捺印のほか、庄屋・組頭2名の奥書が付された公文書形式をとっている
💬 解釈が分かれる箇所
- 甚兵衛と喜兵衛の関係
-
口上書では「私兄喜兵衛」とあり、甚兵衛の兄が喜兵衛とされる。
一方、志賀島小幅には発見者として「秀治・喜平」の名がある。
喜兵衛と喜平が同一人物かどうか(「喜兵衛」の略称が「喜平」か)は検討を要する。 - 「市中風説」の内容と経路
-
届け出前に金印の情報がどのような経路で広まったかは不明。
亀井南冥(かめいなんめい、福岡藩の儒学者)が早い段階から関与していたとする伝承があるが、口上書には記されていない。 - 発見場所の確定
-
口上書が「叶の崎の田境の中の溝」と記す発掘地点と、現在の「金印公園」の場所が一致するかどうかは近現代の調査でも完全には確定されていない。
🔍 未解決の仮説・問い
- 甚兵衛が「石の間に光るものがあった」と記す発掘状況は、金印が意図的に石囲いの中に埋められていた可能性を示唆する。意図的な埋納(奉納・隠匿・副葬など)か、偶然の流失・埋没かは未解明。
- 「大切な品」と判断した「福岡町家の識者」が誰かは口上書に記されていない。亀井南冥・青柳種信らとの関係の解明が課題。
- 口上書を実際に書き留めたのは庄屋・長谷川武蔵であり、甚兵衛の申告内容を代筆した形式であることが確認されている。
- 原本は現在所在不明。大谷光男氏が1956年に中島利一郎氏のもとで閲覧した際の記録・フィルムが現在のテキストの主要な依り代となっている。

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