『甚兵衛の口上書(百姓甚兵衛口上書)』は、江戸時代の天明4年(1784年)3月16日付で、筑前国(福岡県)志賀島村の庄屋・長谷川武蔵が書き留めた、金印発見の役所への届け出書です。
国宝「漢委奴國王」の金印が、いつ、どこで、誰によって発見されたのかを記した公的な記録であり、金印の真偽(江戸時代の偽造ではないか?)を検証するための最重要史料です。
しかし、原本の行方や発見者の実在に謎が多く、現在でも激しい論争の的となっています。
- 金印発掘の公式記録
1784年に志賀島の「叶の崎」で、溝工事中に金印が発掘された経緯を福岡藩に報告した公文書である。 - 「甚兵衛」は本当にいたのか?
発見者とされる甚兵衛の名前が当時の土地台帳になく、本当に実在した人物なのか(別の小作人が見つけたのではないか)が疑われている。 - 原本が行方不明
福岡藩に提出されたはずの「真の原本」は所在不明であり、現在残っているのは写本(控え)の写真記録のみである。
甚兵衛の口上書とは

正式な文書名は『那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚』といいます。
百姓の甚兵衛が金印を発見した経緯を申告し、それを庄屋の長谷川武蔵が書き留め、組頭2名とともに署名して福岡藩の役所に提出した公文書(口上書)です。
甚兵衛が所有する田地(筑前国那珂郡志賀島村・叶の崎)で、溝を修復する工事中に石の間から「金製の印判のようなもの」を発見したという生々しい状況と、発見から届け出までの経緯が記録されています。

史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 資料名 | 那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚 |
| 記録者 | 長谷川武蔵(志賀島村 庄屋) |
| 提出先 | 津田源次郎様御役所(福岡藩役所) |
| 作成年月日 | 天明4年(1784年)3月16日 |
| 分類 | 江戸時代公文書(口上書形式・近世文書) |
| 現存状況 | 原本は所在不明。写本(控え)の写真記録等のみ伝存 |
謎に包まれた信憑性
甚兵衛の口上書は、庄屋や組頭の署名がある正式な公文書形式をとっており、金印出土の強力な証拠となり得ます。
しかし、以下の2点からその信憑性に疑問が投げかけられています。
- 原本の所在不明と再検証の困難さ
-
役所に提出された「真の原本」は、金印とともに黒田藩に収蔵されたはずですが、現在は所在不明です。研究の基礎となっているテキストは、1956年に金印研究者の大谷光男氏が、郷土史家の中島利一郎氏の所蔵品から確認・撮影した「写本(控え)」の写真フィルム等に依拠しています。
原本の紙質や墨の再検証ができないことが、金印偽造説がくすぶり続ける一因となっています。 - 甚兵衛の実在に関する問題
-
「甚兵衛」という人物が本当に実在したのかが疑われています。
- 当時の志賀島村の名寄帳(土地の記録台帳)に甚兵衛の名が確認できない。
- 同じく金印発見経緯を記した別の史料『志賀島小幅』には、甚兵衛の名が一切登場しない。
口上書には「私の所有する田地(私抱田地)」とありますが、甚兵衛は単なる名義人で、実際に泥にまみれて金印を掘り出したのは地元の小作人や別人であった可能性も指摘されています。
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志賀島小幅とは? 博多聖福寺の禅僧・仙厓義梵が1820〜1830年頃に記したとされる掛け軸『志賀島小幅』の解説。金印の由来を考察し「矮奴は和国にあらず怡土の縣主也」という伊都国説を示す。公式記録との食い違いが多く、原本は非公開。 - 甚兵衛のハンコしかない
-
甚兵衛の名前の上に、印と言う字が記載された円(㊞ ※環境依存文字のため表示できない場合アリ)が見られます。
これは大正時代に複製した際に押されたハンコと思われますが、組頭などの名前にはハンコがありません。
原文でも印が無かったのか、複製時の押印漏れかは分かりません。
金印発見から届け出までのタイムライン
口上書には、発見から役所への届け出までに「約3週間」の空白期間があることが記されています。
甚兵衛の田地(叶の崎)で溝工事中に金印を発掘。
兄・喜兵衛の伝手で福岡の識者に見せ「大切な品」と判定される。
この間に市中に噂が広まる。
庄屋から「役所へ届け出よ」と命じられる。
口上書を役所(福岡藩)に提出。
口上書の末尾(庄屋の奥書)には、「届け出の前に市中に噂(風説)が広まってしまい申し訳ない」という謝罪の文言があり、この3週間の間に金印の存在が民間人や学者の間で話題になっていたことがわかります。
邪馬台国研究における位置づけ
『甚兵衛の口上書』は、中国の歴史書(正史)ではありませんが、邪馬台国研究の「大前提を支える史料」として機能しています。
中国の『後漢書』には、「建武中元二年(57年)、倭奴国が朝貢し、光武帝が印綬を賜った」と記されています。
この記述を裏付ける「漢委奴國王」の金印が、1784年の日本(志賀島)の地中から偶然発掘された事実を証明するのが、この口上書です。

口上書が正確な記録であれば、金印は江戸時代の偽造ではなく正真正銘の出土品であり、1世紀の段階で「倭奴国(わのなのこく)」が実在し、中国と外交関係を持っていた確実な物証となります。
倭国の実在は邪馬台国(3世紀)を論じるための出発点であるため、この口上書の検証は避けて通れない研究上の必須手順となっています。
よくある質問(FAQ)
まとめ
『甚兵衛の口上書』は、天明4年(1784年)に「漢委奴国王」の金印が志賀島の叶の崎で発掘されたことを記録した江戸時代の公文書です。
金印が後世の偽造ではなく、地中からの出土品であることを証明する一次資料として、金印真偽論争の基礎史料となっています。
一方で、真の原本が所在不明であることや、発見者「甚兵衛」の実在が当時の台帳で確認できないことなど、信憑性に関する謎も多く残されています。
『後漢書』の記述を裏付ける最重要の考古遺物がどのようにして世に出たのか、『志賀島小幅』などの関連資料と併せて批判的に検討すべき、非常に興味深い近世文書です。


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