旧唐書【倭国伝・日本国伝】原文と現代語訳

旧唐書巻199上列伝第149上「東夷」の倭国条と日本国条の原文・書き下し文・現代語訳。「倭国之別種」「日本旧小国并倭国之地」など国号変更をめぐる記述と遣唐使記録を収める。

『旧唐書』巻199上「東夷・倭国」および「東夷・日本国」を収録する。「日本国者倭国之別種也」という国号変更記事と、遣唐使の外交記録を含む。

目次

史料データ

項目内容
書名旧唐書(くとうじょ、きゅうとうしょ)
巻・章巻199上 列伝第149上 東夷 倭国・日本国
著者劉昫(りゅうく)・張昭遠(ちょうしょうえん)ら
成立年945年(後晋・開運二年)
分類中国正史・二十四史・紀伝体・断代史
底本中国哲学書電子化計画(ctext.org)
参照URLhttps://ctext.org/jiu-tang-shu/dong-yi/zh
備考倭国と日本国が別条として収録される唯一の正史

原文

【倭国伝】

倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行
世與中國通其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附庸焉
其王姓阿毎氏置一大率檢察諸國皆畏附之設官有十二等

其俗多女少男頗有文字俗敬佛法并皆跣足以幅布蔽其前後
貴人頂結帽以錦交縛草爲履賤者皆徒跣
皆衣襜襦其袖微小以白粉塗身若中國之用粉也
婦人皆披髮就手結線無簮梳其衣服之制頗類新羅

貞觀五年遣使獻方物太宗矜其地遠詔所司無令歲貢
又遣新州刺史高表仁持節撫之表仁無綏遠之才與王子爭禮不宣朝命而還
至二十二年又附新羅奉表以通起居

長安元年其大臣真人粟田獻方物

『旧唐書』巻199上 列伝第149上 東夷 倭国・日本国

【日本国伝】

日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名
或曰倭國自惡其名不雅改爲日本
或云日本舊小國并倭國之地
其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉
又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國

長安三年其大臣朝臣真人來貢方物朝臣真人者猶中國户部尚書冠進德冠頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帶
真人好讀經史解屬文容止温雅
則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國

開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助教趙玄默存撫之遣千代之世等謂玄默曰答答等通稱也
所得錫賚盡市文籍泛海而還
其偏使朝臣仲滿慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歷左補闕儀王友
玄宗存撫之甚厚

(中略・天宝〜建中・貞元期の遣使・遣唐使関連記述)

『旧唐書』巻199上 列伝第149上 東夷 倭国・日本国

書き下し文

【倭国伝】

倭国は、古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中に在り、山島に依りて居す。東西は五月の行、南北は三月の行。
世々中国と通ず。その国は居るに城郭なく、木を以て柵と為し、草を以て屋と為す。四面の小島五十余国、みなこれに附庸す。
その王は姓を阿毎氏といい、一大率を置きて諸国を検察し、みな畏附す。官を設くること十二等あり。

その俗、女多く男少なし。頗る文字あり。俗は仏法を敬う。並びにみな跣足(せんそく)にして、幅布を以てその前後を蔽う。
貴人は頂に帽を結び、錦を以て交縛す。草を以て履と為し、賤者はみな徒跣なり。
み衣は襜襦(せんじゅ)し、その袖は微小。白粉を以て身に塗る、中国の粉を用うるがごとし。
婦人はみな髪を披(た)らし、手に就きて線(いと)を結び、簮梳(しんそ)なし。その衣服の制、頗る新羅に類す。

貞観五年(631年)、使を遣わして方物を献ず。太宗、その地の遠きを矜(あわ)れみ、所司に詔して歳貢せしむる無からしむ。
また新州刺史の高表仁を遣わし、節を持してこれを撫せしむ。表仁、遠きを綏(やす)んずるの才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
〔貞観〕二十二年(648年)に至り、また新羅に附して表を奉り、以て起居を通ず。

長安元年(701年)、その大臣・真人粟田(まひとあわた)、方物を献ず。

【日本国伝】

日本国は、倭国の別種なり。その国、日の辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。
或いは曰う、「倭国、自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」と。
或いは云う、「日本は旧(もと)小国なり、倭国の地を并(あわ)せたり」と。
その人の入朝する者、多く自ら矜夸(きょうか)し、実を以て対(こた)えず。故に中国これを疑う。
また云う、「その国界は東西南北おのおの数千里。西界・南界は咸(みな)大海に至り、東界・北界は大山ありて限と為す。山の外は即ち毛人の国なり」と。

長安三年(703年)、その大臣・朝臣真人(あそんまひと)、来たりて方物を貢す。朝臣真人なる者は、なお中国の戸部尚書のごとし。進徳冠を冠り、頂は花と為りて分かれて四散す。身には紫袍を服し、帛(きぬ)を以て腰帯と為す。
真人、経史を読むを好み、文を属(つづ)るを解す。容止温雅なり。
則天、これを麟徳殿に宴し、司膳卿を授け、本国に放還す。

開元の初め(713年頃)、また使を遣わして来朝し、因りて儒士の経を授けんことを請う。四門助教の趙玄默(ちょうげんもく)に詔してこれを存撫せしむ。千代の世(ちよのよ)らを遣わして玄默に謂いて曰く「答答(とうとう)等(我々)の通称なり」と。
得る所の錫賚(しゃくらい:賜り物)は、尽く文籍を市(か)いて、海に泛(うか)びて還る。
その偏使・朝臣仲満(あそんなかまろ)、中国の風を慕い、因りて留まりて去らず。姓名を改めて朝衡(ちょうこう)と為し、仕えて左補闕・儀王友を歴(へ)る。
玄宗、これを存撫すること甚だ厚し。

現代語訳

【倭国伝】

倭国は、昔の倭奴国である。長安から一万四千里離れ、新羅の東南の大海の中にあり、山島を拠り所として居住している。東西は五ヶ月の道のり、南北は三ヶ月の道のりである。
代々中国と通交している。その国には住居に城郭がなく、木を柵とし、草を屋根とする。四方の小島の五十余国は、みなこれに従属している。
その王は姓を阿毎氏といい、一大率を置いて諸国を検察し、みな畏れ服している。官制には十二の等級がある。

その風俗では、女が多く男が少ない。いくらか文字がある。俗に仏法を敬う。みな裸足であり、幅の広い布で体の前後を覆う。
貴人は頭の頂に帽子を結びつけ、錦の紐で結び合わせる。草を履物とし、身分の低い者はみな素足である。
みな襜襦(短い上着と裳)を着て、その袖は非常に小さい。白粉を体に塗っており、中国のおしろいの使い方のようである。
婦人はみな髪を垂らし、手元で糸を結び、かんざしや櫛は用いない。その衣服の制度は、新羅にかなり似ている。

貞観五年(631年)、使者を遣わして特産物を献上した。太宗はその地が遠いことを哀れみ、役所に命じて毎年の朝貢を免除させた。
また、新州刺史の高表仁を遣わし、節(皇帝の使者のしるし)を持たせて慰撫させた。高表仁には遠方の者を安んじる才能がなく、王子と礼儀について争い、皇帝の命令を伝えないまま帰国した。
貞観二十二年(648年)、また新羅の使者に託して上表文を奉り、機嫌伺いをしてきた。

長安元年(701年)、その大臣である真人粟田(粟田真人)が特産物を献上した。

【日本国伝】

日本国は、倭国の別種(別の系統・種族)である。その国が日の昇る方角にあるため、「日本」を名とした。
あるいは「倭国は、自らの名前が雅やかでないことを嫌って、改めて日本とした」と言う。
あるいは「日本はもと小国であったが、倭国の領土を併合した」とも言う。
その国から入朝してくる者は、多くが自慢・誇張をし、事実をもって答えない。そのため中国側はこれ(国号変更の理由)を疑っている。
また「その国境は東西南北それぞれ数千里ある。西の境と南の境はすべて大海に接し、東の境と北の境には大きな山があって境界となっている。山の外は毛人(蝦夷)の国である」と言う。

長安三年(703年)、その大臣である朝臣真人(粟田真人)が来て特産物を貢いだ。朝臣真人という者は、中国の戸部尚書のようなものである。進徳冠をかぶり、その頂は花の形で四方に散るようになっている。紫の袍を着て、絹を腰帯としている。
真人は経書や史書を読むのを好み、文章を綴ることもできる。立ち居振る舞いは穏やかで優雅であった。
則天武后は彼を麟徳殿での宴に招き、司膳卿の官位を授け、本国へ帰国させた。

開元の初め(713年頃)、また使者を遣わして来朝し、儒学者が経典を教授してくれるよう請うた。四門助教の趙玄默に詔を下して彼らを慰撫・指導させた。千代の世(ちよのよ)らを遣わして玄默に「答答(我々)の通称です」と言った。
賜った品々は、すべて書物を買うのに使い、海に浮かんで帰国した。
その副使である朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は、中国の風俗を慕い、そのまま留まって帰らなかった。姓名を朝衡(ちょうこう)と改め、官に仕えて左補闕・儀王友を歴任した。
玄宗皇帝は、彼を非常に手厚く待遇した。

語注

語句読み解説
一大率いちだいそつ魏志倭人伝に登場する官名。
旧唐書では当時の王(阿毎氏)が設置した制度として記述される。
高表仁こうひょうじん貞観五年に倭国を訪れた唐の使者。
「王子と礼を争う」という記述が日本書紀の舒明天皇四年記事と対応?
真人粟田まひとあわた粟田真人のこと。
倭国伝の最後に長安元年(701年)の遣使として登場。
朝臣真人あそんまひと粟田真人(あわたのまひと)。
702年の遣唐使大使。
大宝律令制定翌年に初の「日本国」使節として唐を訪問した
進徳冠しんとくかん大宝令・養老令に定められた礼冠の一種。
倭国之別種わこくのべっしゅ倭国とは別の系統・種族という意。
「別種」が別政権を指すのか、改号・改制の表現なのかは論争中。
矜夸きょうか誇り高ぶること。
使節が国名・国制の由来について一貫しない自慢話をしたこと。
唐側の記録という部分がポイント。
毛人之国もうじんのくに日本の東北・北部のエミシの居住地域。
蝦夷(えみし)と推定される。
朝臣仲満あそんなかまろ阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)。
717年に入唐、唐の官吏となり生涯帰国できなかった。
朝衡ちょうこう阿倍仲麻呂が唐で名乗った中国名。
李白・王維らと交友した文人・官吏。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 旧唐書は「倭国条」と「日本国条」を完全に別立てで収録した唯一の正史である
  • 倭国条の「本率一人置以検察諸部」は隋書の「俀国」記事と接続する倭国制度の記録である
  • 日本国条では、国号変更の理由として「太陽の昇る方角」「倭という名を嫌った」「日本が倭を併合した」の3説を挙げている
  • 日本の使節の言動が唐側から「多自矜夸(大げさで不誠実)」と認識されていたことが記されている
  • 粟田真人の風貌や教養、阿倍仲麻呂(朝衡)の唐での活躍が具体的に記録されている

💬 解釈が分かれる箇所

「日本国者倭国之別種也」と「并倭国之地」の真意

「別種」という表現が、単に王朝が名前を改めたことの中国的な表現なのか、あるいは実際に「九州にあった倭国」と「大和にあった日本国」という2つの異なる政権が存在し、後者が前者を併合した歴史的事実(九州王朝説など)を示しているのかは、現在でも議論が続く最大の論点である。

粟田真人の遣使年に関する重複と混乱

倭国伝の末尾に「長安元年(701年)」、日本国伝に「長安三年(703年)」と、同じ粟田真人(大宝の遣唐使)の来朝が別々の年で二重に記録されています。
これは、唐側の異なる年代の記録(起居注など)を編纂者が十分な整理を行わずに切り貼りしたために生じた『旧唐書』特有の混乱(重複記事)とするのが歴史学の定説です。
実際の長安入京は長安二年(702年)末とみられています。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「小島五十余国」という記述は、3世紀の魏志倭人伝(三十国)からの変化を示すのか、単なる誇張か。
  • 高表仁が「礼を争った王子」とは誰か。中大兄皇子、あるいは別の有力者か。
  • 遣唐使が中国側に伝えた「日本の地理的広がり」や「毛人の国」の認識は、当時の律令国家の支配領域(東北侵興)の実態をどの程度反映しているか。
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