邪馬台国の女王・卑弥呼が没したとされる3世紀中頃。
実はこの時期、日本列島では大規模な「日食」が連続して起きていたことが天文学の計算で判明しています。
太陽が隠れて天地が暗くなるこの自然現象は、日本神話の「天の岩戸隠れ伝説」のモデルであり、天照大神(アマテラスオオミカミ)=卑弥呼の死を表しているのではないか?という壮大な仮説が存在します。
史料の記録(事実)と天文学的データを照らし合わせ、この魅力的なミステリーを検証します。
- 事実と推測の境界線
日食が起きたことは天文学的な事実だが、一次史料(魏志倭人伝や記紀)には「卑弥呼の死と日食」を結びつける記述はなく、あくまで現代の仮説である。 - 247年の日食(夕方)
九州北部でのみ、日没時に皆既に近い劇的な日食が観測できた可能性が高い(九州説に有利なデータ)。 - 248年の日食(朝)
能登半島から東北地方にかけて、日の出直後に皆既日食が観測できた可能性が高い(東日本説に有利なデータ)。
卑弥呼と日食(岩戸隠れ伝説)の関係性
岩戸隠れ伝説とは

日本神話(古事記・日本書紀)における「天の岩戸隠れ」は、太陽の神である天照大神が弟・スサノオの暴挙に怒って岩屋の奥に隠れてしまい、天地が真っ暗になったという有名なエピソードです。


卑弥呼は「鬼道(きどう)」を用いたシャーマン的な統治者であったとされています。
そのため、「卑弥呼が亡くなった(あるいは霊力を失った)タイミングで巨大な日食が起き、太陽が消えたことにパニックに陥った民衆の記憶が、後に岩戸隠れ伝説として神話化されたのではないか」という仮説が、一部の研究者や古代史ファンの間で支持されています。

非常にロマンのある説ですが、中国の史書にも日本の歴史書にも、卑弥呼の死と日食を直接結びつける記録は一切ありません。
これはあくまで、「卑弥呼=天照大神」という前提に立った現代の推測(仮説)の域を出ない点に注意が必要です。
対象となる2回の日食
卑弥呼は魏志倭人伝の記述から、247年〜248年頃に没したと推定されています。
奇しくもこの時期、日本で観測できた可能性のある大規模な日食が2回ありました。
- 247年3月24日(日没頃)
- 248年9月5日(日の出直後)
天文データの注意事項(誤差について)
過去の日食データの計算は、天体の運動(地球の自転速度の減速・歳差運動など)の複雑な変化を逆算するため、必ず一定の誤差(ΔT:デルタティー)を含みます。
以下のデータは絶対的なものではなく、推計値である点をご留意ください。
また、国立天文台は2010年の論文で「食分0.9程度1では人間の目にはあたりは暗くならない。」と指摘しています。
食分0.9(248年の日食の値)ではあたりは暗くならない。
https://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/13-34-3.pdf
したがって、どちらの日食も「天の磐戸」日食の候補としてふさわしくない。
しかし翌2011年には、一部見解を補足しています。
卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に、北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する。
https://www.nao.ac.jp/contents/about-naoj/reports/report-naoj/14-34-1.pdf
過去の天文データについては、天文学のスペシャリストでさえ意見が異なったり計算のずれが起きたりするものであり、値を正確なものとして受け取るべきではありません。
多少のずれがあること踏まえ、大まかな範囲で考える必要があります。
① 247年の日食(3月24日・夕方)
247年3月24日の日没頃、北九州付近でのみ皆既に近い日食が確認できた可能性があります。
それより東の地域(近畿など)では、日食が最大になる前に太陽が沈んでしまいました。
九州(福岡)のデータ
赤線部:観測地の緯度経度。
青枠部:観測地の時刻。
緑枠部:食分(日食時に月に覆われた太陽の直径の度合い)。
橙枠部:表の行ヘッダに該当する。First Penumbra Contactは最初に部分日食が見られる時刻、Max Eclipseは観測地で月が太陽と最大まで被った時刻、Magnitude at Sun Setは観測地の日没時刻。

| 状況 | 観測地の時刻 | 食分 |
|---|---|---|
| 部分日食開始 | 17時35分01秒 | — |
| 最大食分の時刻 | 18時32分57秒 | 0.991 |
| 日没時刻 | 18時31分41秒 | 0.982 |
日没時(18時31分)が実質的な最大食分となり、0.982という皆既に極めて近い値でした。
計算の誤差を考慮すれば、太陽が完全に欠けたまま沈んでいくという、恐ろしいほど劇的な光景(皆既日食)が見られた可能性があります。
近畿(奈良)のデータ

| 状況 | 観測地の時刻 | 食分 |
|---|---|---|
| 部分日食開始 | 17時38分58秒 | — |
| 最大食分の時刻 | 18時35分00秒 | 1.001 |
| 日没時刻 | 18時13分52秒 | 0.624 |
奈良県では、太陽が大きく欠ける前(食分0.624の部分日食の状態)で日没を迎えてしまいます。
九州に比べると、視覚的なインパクトは小さかったと考えられます。
② 248年の日食(9月5日・朝)
248年9月5日には、日の出の直後に能登半島〜東北地方南部付近でのみ皆既日食(日出帯食)が観測できたと推計されています。
能登半島のデータ

| 状況 | 観測地の時刻 | 食分 |
|---|---|---|
| 日の出時刻 | 5時23分27秒 | 0.550 |
| 最大食分の時刻 | 5時49分29秒 | 0.999 |
| 部分日食終了 | 6時51分02秒 | — |
すでに半分欠けた状態(食分0.55)で太陽が昇り、5時49分頃にほぼ皆既日食(0.999)となります。
約1時間にわたって観測できる大規模なものでした。
東北(岩手・八幡平)のデータ

248年の皆既日食帯は東北地方南部(福島県付近)とされていますが、仮定するデータで誤差が出ます。
邪馬台国の比定地説の1つに岩手・八幡平説というものがあるので、ここでは東経140.8度、北緯39.9度にある八幡平での皆既日食データを参照します。
| 状況 | 観測地の時刻 | 食分 |
|---|---|---|
| 日の出時刻 | 5時06分04秒 | 0.210 |
| 最大食分の時刻 | 5時51分53秒 | 0.933 |
| 部分日食終了 | 6時54分50秒 | — |
早朝5時6分頃の日の出時点では食分0.21と能登半島に比べ、かなり低い値となっています。
その後5時51分頃に食分が最大の0.933となった後、6時54分頃に日食が終わります。
だんだん太陽が欠けていく様子を約45分かけて観測できたと思われます。
八幡平は標高1600mほどの高原台地で見晴らしが良いことを踏まえると、247年のデータを含めても最も”だんだん太陽が欠けていく様子”を観測できた可能性があります。
一方で、誤差があり得るとは言え、最大食分が0.933と皆既日食と呼ぶには少々物足りない気もします。
九州・近畿のデータ(248年)


248年の日食は、西日本では不向きでした。
九州北部では太陽が昇る前(日の出前)に日食のピークが終わっており、奈良県でも日の出時の食分は0.704、欠ける過程を観測できる時間はわずか15分程度にとどまります。
まとめ
史料に記述された「事実」と、そこからの「解釈・仮説」を整理します。
【事実の確認】
- 卑弥呼の没年と重なる247年と248年に、日本列島周辺で大規模な日食が起きたことは天文学的な事実である。
- 一方で、一次史料(魏志倭人伝・古事記・日本書紀)に「卑弥呼の死」と「日食(岩戸隠れ)」を直接結びつける記述は一切存在しない。
【事実に基づく解釈と仮説】
- 天文データによれば、247年の日食(夕方)は北九州で劇的に見え、248年の日食(朝)は能登〜東日本で劇的に見えた可能性が高い。
- もし日食が卑弥呼の死や神話のモデルに影響を与えたと仮定するならば、247年のデータを重視すれば「九州説」が、248年のデータを重視すれば「畿内(東日本)説」が関連性を持つことになります。
日食と卑弥呼の死を直接結びつけることは現時点では推論の域を出ません。
しかし、古代の人々が見上げたであろう「欠けていく太陽」の軌道を計算することで、1800年前の邪馬台国の姿に思いを馳せるのは、歴史科学ならではの大きなロマンと言えるでしょう。
参考文献・注釈
- 食分:0は太陽と月が外接状態、0.5では太陽の半分が月に隠れた部分日食、1以上で皆既日食です。 ↩︎
出典・データ
| 出典 | 内容 |
|---|---|
| 国立天文台論文(2010年・2011年) | 247年・248年の日食に関する天文学的考察。相馬充氏らの研究。 |
| 日蝕ソフト EmapWin(Ver3.6) | 本記事の日食データの計算に使用。「古天文の部屋」様提供。 |
| NASA Solar Eclipse Page | 過去・未来の日食データの参照に使用可能な公開データベース。 |
史料書誌

デジタルアーカイブ
- 魏志倭人伝・紹煕本(宮内庁書陵部蔵):宮内庁書陵部図書寮文庫デジタルアーカイブ
- 魏志倭人伝・紹興本(国立国会図書館蔵):国立国会図書館デジタルコレクション

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