古事記【崇神天皇記の大物主神祭祀・疫病鎮静記事】原文と現代語訳

古事記中巻・崇神天皇記の大物主神の夢告・意富多多泥古(オオタタネコ)探索・四道将軍派遣記事の原文と現代語訳。邪馬台国の卑弥呼に見られる祭政一致の統治構造との比較論点を収める。

『古事記』中巻「御真木入日子印恵命(崇神天皇)の段」から、疫病鎮静のための大物主神祭祀と意富多多泥古(オオタタネコ)の探索、および将軍の派遣記事を収録する。卑弥呼の「鬼道を事とし衆を惑わす」という統治と構造的に対比・参照される箇所。

目次

史料データ

項目内容
書名古事記(こじき)
巻・章中巻 御真木入日子印恵命(崇神天皇)の段
著者太安万侶(おほのやすまろ)、口誦:稗田阿礼
成立年712年(和銅五年)
分類日本国史・記紀(変体漢文・万葉仮名)
底本真福寺本(最古写本)・国立国会図書館デジタルコレクション
参照URLhttps://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920805

原文・書き下し文・現代語訳

疫病の発生と大物主神の夢告

此天皇御世疫病多降人民死為盡
爾天皇愁歎而坐神牀之夜大物主神顯於御夢曰
是者我之御心所以意富多多泥古令祭我御魂者神氣不起國安平

『古事記』中巻 御真木入日子印恵命(崇神天皇)の段

此の天皇の御世、疫病(えやみ)多く降り、人民(おおみたから)死に尽きんと為す。
爾(ここ)に天皇愁い歎きて、神牀(かむどこ)に坐(ま)すの夜、大物主神、御夢に顕れて曰りたまはく、
「是れは我が御心ぞ。故(ゆえ)に意富多多泥古(おほたたねこ)を以て我が御魂(みたま)を祭らしめば、神の氣(け)起こらずして、国安らかに平らぎなむ」とのりたまひき。

意富多多泥古の探索と祭祀

是以驛使班于四方求尋其人時見於河內之美努村
爾問汝者誰子答曰僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毘賣生子
名櫛御方命之子飯肩巣見命之子建甕槌命之子意富多多泥古僕也
爾天皇大歡以意富多多泥古令祭大物主神之御魂

『古事記』中巻 御真木入日子印恵命(崇神天皇)の段

是を以て駅使(はゆまづかい)を四方に班(あか)ちて、其の人を求尋(ま)ぎし時、河内の美努村(みのむら)に見得つ。
爾に「汝は誰(た)が子ぞ」と問ひたまへば、答へて曰(まを)さく「僕(あれ)は、大物主大神、陶津耳命(すえつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶りて生める子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、意富多多泥古(おほたたねこ)、僕ぞ」とまをしき。
爾に天皇大いに歓びて、意富多多泥古を以て、大物主神の御魂を祭らしめたまひき。

各地への将軍派遣(四道将軍)

是以疫病悉息國家安平
爾大毘古命をば高志道に遣はし、建沼河別命をば東の方十二道に遣はして、
其のまつろはぬ人等を言向け和さしめき。
また日子坐王をば旦波國に遣はして、玖賀耳之御笠を殺さしめき。

『古事記』中巻 御真木入日子印恵命(崇神天皇)の段

是を以て疫病悉(ことごと)に息(や)みて、国家安らかに平らぎき。
爾に大毘古命(おほびこのみこと)をば高志道(こしのみち)に遣わし、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)をば東の方十二道に遣わして、そのまつろわぬ人等(ども)を言向け和さしめき。
また日子坐王(ひこいますのみこ)をば旦波国(たにわのくに)に遣わして、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめき。

語注

語句読み解説
大物主神おおものぬしのかみ三輪山(奈良県)の神。
大国主神の和魂(にぎみたま)ともされる。
疫病や祟りを起こす強力な神威を持つ。
神牀かむどこ神の託宣(お告げ)を祈って眠るための清浄な寝床。
意富多多泥古おおたたねこ大物主神の子孫。
言向け和さしめきことむけやわさしめき武力だけでなく、言葉や神威をもって服従させること。
大和政権の統治手法。
御肇国天皇はつくにしらすすめらみこと「初めて国を治めた天皇」の意。
崇神天皇の尊称。
大毘古命などおおびこのみこと各道に派遣された将軍たち。
『古事記』にはそれぞれの派遣は記されている。
「四道将軍」という総称自体は『日本書紀』で用いられている呼称。
大和王権の地方支配確立を示す。
大神(三輪山)おおみわ奈良県桜井市の三輪山。
大物主神を祀る日本最古の神社(大神神社)がある。
拝殿はあるが本殿がなく山自体がご神体という形式。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 古事記は崇神天皇を「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称し、初めて天下の法を定めた天皇として特別に位置づけている
  • 疫病を神の祟りとして神意を伺い、特定の祭祀を行うことで解決するという「祭政一致」の統治が描かれている
  • 大物主神の末裔・意富多多泥古(オオタタネコ)が三輪氏の祖先とされ、現在の大神神社(三輪明神)の祭祀に実際に継続している
  • 将軍の派遣が「言向け和平(武力ではなく言葉と神威による服従)」として描かれており、大和王権の地方統合の様子を示している

💬 解釈が分かれる箇所

卑弥呼の「鬼道」と崇神天皇の「祭祀」の関係

魏志倭人伝が記す卑弥呼は「鬼道を事とし、能く衆を惑わす(呪術的・宗教的権威で民衆をまとめる)」女王でした。崇神天皇が疫病という国家の危機に対し、神意を伺って祭祀を行うことで平定した姿は、卑弥呼のようなシャーマニズム的統治(祭政一致)の記憶を反映しているとする解釈があります。
ここから「崇神天皇の時代=邪馬台国(またはその後継)の時代」とする説や、崇神天皇の先代にあたる時代が卑弥呼の時代だとする説など、様々な推測が行われています。

三輪山と箸墓古墳

古事記のこの段は、大和(奈良盆地南東部)の三輪山信仰が国家的な祭祀として確立した経緯を語っています。
三輪山の麓には、邪馬台国畿内説で卑弥呼の墓の有力候補とされる「箸墓古墳(はしはかこふん)」を含む初期ヤマト政権の巨大古墳群(纒向遺跡周辺)が存在します。
考古学的な中心地と、古事記が語る「神の祟りと祭祀」の舞台が完全に一致している点が、畿内説の重要な傍証とされています。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「人民死為盡(人民が死に絶えようとした)」という疫病の大流行は、3世紀後半の日本列島で実際に起きた気候変動や感染症の記憶なのか、それとも神話的な表現の定型なのか。
  • なぜ大和の王(崇神天皇)が、わざわざ河内国(大阪)にいた意富多多泥古を探し出して祭祀を任せなければならなかったのか。これは在地勢力(三輪氏)と新興の大和政権の間の政治的妥協や服属の儀式を神話化したものとも考えられます。
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