不弥国(宇美)

邪馬台国への旅路で、巨大な奴国から東に百里進んだ先に位置するのが「不弥国(ふみこく)」です。
千余家という小規模な国ですが、魏志倭人伝に記された旅程において、九州北部の地理的連続性が確認できる「最後の国」となります。

不弥国を過ぎると、次の投馬国へは「南至投馬國水行二十日」といきなり途方もない水路の旅へと切り替わるため、邪馬台国論争において極めて重要な「ターニングポイント(分岐点)」となる国です。

【この記事のポイント】
  • 比定地は「宇美町」説が有力
    「不弥(フミ)」という音が現在の福岡県糟屋郡「宇美(ウミ)町」に対応するとされ、九州・畿内両説で有力な比定地となっている。
  • 陸路の終わりと水路の始まり
    対馬から続いてきた詳細な陸路の旅程はここで一旦終わり、ここから先は船による長距離移動(水行)へと切り替わる。
  • 最大の論争の分岐点
    次の投馬国への出発点を、この「不弥国」とするか、あるいは手前の「伊都国」から放射状に読み直すかによって、邪馬台国の位置(九州か畿内か)が全く変わってくる。
目次

「不弥国」の表記

不弥国の表記は史料間でほぼ共通しています。

史料国名表記備考
魏志倭人伝(紹煕本・紹興本)不弥國3世紀の記録
梁書 / 北史不彌國7世紀の中国正史
クルエイチ

当サイトでは、便宜上「不弥国」という新字体を中心に使用して解説を進めます。
「弥」と「彌」は同じ字の異体字(略字・繁体字の関係)であり、意味の違いはありません。
なお、『翰苑(魏略の逸文)』には不弥国に関する記述が脱落しています。

魏志倭人伝に記された不弥国の姿

1. 行程と官名

魏志倭人伝では、不弥国について非常に簡潔に記されています。

東行至不弥國百里 官曰多模 副曰卑奴母離
(東行して不弥国に至ること百里。官は多模[たも]といい、副は卑奴母離[ひなもり]という。)

伊都国→奴国が「東南」だったのに対し、不弥国への行程は「東行(東へ)」と方角が変わっています。
「卑奴母離」という副官名は、対海国・一大国・奴国と共通しており、何らかの防衛・港湾管理の役職名であった可能性が高いとされています。

2. 戸数(千余家)

有千余家
(千余家あり。)

戸数は「千余家」であり、奴国の「二万余戸」から一気に小規模になります。
これまでの国は「戸」と表記されていましたが、ここでは「家」が使われています(意味の違いか用字の揺れかは諸説あります)。

ルート論争の最大の分岐点

不弥国についての記述が終わると、魏志倭人伝は突如として次のように続きます。

南至投馬國水行二十日(南、投馬国に至る。水行二十日。)

この「水行二十日」の旅を、どこから出発したと解釈するかで、邪馬台国の位置は完全に割れます。

  1. 連続読み: 記述通り「不弥国」から船に乗り、南へ向かったとする説。
  2. 放射読み: 不弥国への旅はここで終わり、いったん外交拠点である「伊都国」に戻ってから、改めて伊都国を起点に船で南へ向かったとする説。

不弥国は、読者と研究者を巨大なミステリーへと誘う「最後の確実な港」なのです。

考古学的情報(巨大遺跡の不在)

不弥国の比定地とされる福岡県糟屋郡宇美町周辺については、伊都国の「平原遺跡」や奴国の「須玖岡本遺跡」のように、「ここが不弥国の王都だ」と明確に特定できる大規模な弥生時代の拠点遺跡は、現時点では確認されていません。

宇美町には、神功皇后が応神天皇を産んだ(産み=宇美)という伝承を持つ宇美八幡宮などがあり、古代から人々の活動が認められる重要な地です。
周辺(糟屋郡・粕屋町一帯)で散発的な弥生時代の遺物は確認されていますが、小規模な「千余家」の国という記述の通り、突出した権力拠点は持っていなかったのかもしれません。
今後の考古学的調査の進展が待たれる地域です。

結論(比定地)

不弥国の比定地としては、現在の福岡県糟屋郡宇美(うみ)町周辺とする説が最も有力です。

「不弥(フミ)」の音が「宇美(ウミ)」に対応することや、奴国(福岡平野)から「東行百里」という位置関係に概ね合致するためです。
九州説・畿内説ともにこの宇美説を採用することが多いですが、畿内説の一部では、さらに東に進んだ宗像(むなかた)地方などに比定する異説も存在します。

いずれにせよ、魏の使節団の「確実な足取り」はここで途絶えます。
いよいよ次は、謎に包まれた水行の旅へと漕ぎ出すことになります。

研究者にシェア!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次