北史【倭国伝】原文と現代語訳

北史巻94列伝第82「倭国」の原文と現代語訳。邪馬台国比定の根拠「居於邪摩堆則魏志所謂邪馬台者也」を含み、隋書と並ぶ7世紀の倭の詳細記録。阿毎多利思比孤・冠位十二階・「日出処天子」国書を収める。

『北史』巻94「四夷・倭国」を収録する。「居於邪摩堆則魏志所謂邪馬台者也」という邪馬台国比定文と、魏志の道程記事の引用、冠位十二階・隋への遣使記録を含む。

目次

史料データ

項目内容
書名北史(ほくし)
巻・章巻94 列伝第82 四夷 倭国
著者李延寿(りえんじゅ)
成立年659年
分類中国正史・二十四史・紀伝体・通史(北朝五史の統合)
底本中国哲学書電子化計画(ctext.org)
参照URLhttps://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=234060
備考同巻に「流求国」の記事あり(本ページは倭国のみ)

原文

【概観・邪馬台国比定】

倭國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居
魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海地勢東高西下居於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也
古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

『北史』卷94 列伝第82 四夷

【道程記事(魏志からの引用)】

從帶方至倭循海水行歷韓國乍南乍東七千餘里始度一海
又度一海千餘里至末盧國
又東南陸行五百里至伊都國
又東南行百里至奴國
又東行百里至不彌國
又南水行二十日至投馬國
又南水行十日陸行一月至邪馬臺國即倭王所居
其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮

『北史』卷94 列伝第82 四夷

【政治体制・官位・風俗】

自魏至于齊梁代相王侯遣使達中國
開皇二十年倭王姓阿每字多利思比孤號阿輩雞彌遣使詣闕
上令所司訪其風俗使者言倭王以天為兄以日為弟天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟高祖曰此大無里於是訓令改之

王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子為利歌彌多弗利
無城郭內有十二等官一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數
有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戶置一伊尼翼如今之里長也十伊尼翼屬一軍尼
其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繫之於腳人庶多跣足不得用金銀為飾故時衣橫幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髮兩耳上至隋其王始制冠以錦綵為之以金銀鏤花為飾
婦人束髮於後垂衣裙襦必皆有襈竹梳插頭交以步搖加之群下敬上但兩手共擊地即當拜也

『北史』卷94 列伝第82 四夷

【大業三年の遣使(日出処天子)】

大業三年其王多利思比孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來請佛法
其國書曰日出處天子致書日沒處天子無恙
帝覽之不悅謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞

『北史』卷94 列伝第82 四夷

【大業四年:裴世清の来日】

明年上遣文林郎裴世清使倭國
度百濟行至竹島南望𨈭羅國經都斯麻國迥在大海中
又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以為夷洲疑不能明也
又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於倭王

倭王遣小德阿輩臺從數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞
既至彼都其王與清相見大悅曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境內不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化
世清答曰皇帝德并二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭
既而引世清就館

其後世清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗
於是設宴享以遣世清復令使者隨清來貢方物此後遂絕

『北史』卷94 列伝第82 四夷

論曰:廣谷大川異制 人生其間異俗 嗜欲不同 言語不通 聖人因時設教 所以達其志而通其俗也 九夷所居 與中夏懸隔 然天性柔順 無橫暴之風 雖綿邈山海 而易以道禦 夏・殷之世 時或來王 暨箕子避地朝鮮 始有八條之禁 疏而不漏 簡而可入 化之所感 千載不絕 今遼東諸國 或衣服參冠冕之容 或飲食有俎豆之器 好尚經術 愛樂文史 遊學於京都者 往來繼路 或沒世不歸 非先哲之遺風 其孰能致於斯也?故孔子曰:「言忠信 行篤敬 雖蠻貊之邦行矣 」誠哉斯言 其俗之可采者 豈楛矢之貢而已乎?自魏迄隋 年移四代 時方爭競 未遑外略 洎開皇之末 方征遼左 天時不利 師遂無功 二代承基 志苞宇宙 頻踐三韓之地 屢發千鈞之弩 小國懼亡 敢同困獸 兵不載捷 四海騷然 遂以土崩 喪身滅國 兵志有之曰:「務廣德者昌 務廣地者亡 」然遼東之地 不列於郡縣久矣 諸國朝正奉貢 無闕于歲時 二代震而矜之 以爲人莫己若 不能懷以文德 遽動干戈 內恃富強 外思廣地 以驕取怨 以怒興師 若此而不亡 自古未聞也 然四夷之戒 安可不深念哉!其豆莫婁・地豆幹・烏洛侯 歷齊周及隋 朝貢遂絕 其事故莫顯云

『北史』卷94 列伝第82 四夷

書き下し文

【概観・邪馬台国比定】

倭国は百済・新羅の東南、水陸三千里、大海の中に在りて、山島に依りて居す。
魏の時、訳(つうやく)して中国に通ずるもの三十余国、みな自ら王と称す。夷人里数を知らず、ただ日を以て計る。その国境は、東西は五月の行、南北は三月の行にして、おのおの海に至る。地勢は東が高く西が下る。邪摩堆(やばたい)に居す、すなわち魏志にいわゆる邪馬臺(やまたい)なる者なり。
古に云う、楽浪郡の境及び帯方郡を去ること並びに一万二千里、会稽の東に在りて儋耳(たんじ)と相い近しと。

【道程記事(魏志からの引用)】

帯方より倭に至るには、海水に循(したが)いて行き、韓国を歴て乍ち南、乍ち東に七千余里、始めて一海を度る。
また一海を度ること千余里にして末盧国に至る。
また東南、陸行五百里、伊都国に至る。
また東南に行くこと百里、奴国に至る。
また東に行くこと百里、不弥国に至る。
また南、水行二十日、投馬国に至る。
また南、水行十日・陸行一月にして邪馬臺国に至る。すなわち倭王の居る所なり。
その官、伊支馬あり、次を彌馬獲支と曰い、次を奴往鞮と曰う。

【政治体制・官位・風俗】

魏より斉・梁に至るまで、代々王侯を相(継)ぎ、使を遣わして中国に達す。
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはけみ)、使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。
上、所司に令してその風俗を訪(と)わしむ。使者言えらく、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ぬと云う」。高祖曰く、「これ大いに理なし」と。ここにおいて訓令してこれを改めしむ。

王の妻は号して雞彌(けみ)という。後宮に女六・七百人あり。名づけて太子をば利歌彌多弗利(りかみたふり)と為す。
城郭なく、内に十二等の官あり。一を大徳と曰い、次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信。員に定数なし。
軍尼(こうに)一百二十人あり、なお中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼(いにき)を置く、今の里長のごときなり。十伊尼翼は一軍尼に属す。
その服飾、男子は衣裙襦(きんじゅ)し、その袖微小なり。履は屨(くつ)の形のごとく、その上に漆し、これを脚に繋ぐ。人庶多くは跣足(せんそく)にして金銀を用い飾と為すを得ず。故時の衣は横幅にして結束し相連ねて縫うことなし。頭また冠なく、ただ髪を両耳の上に垂らすのみ。隋に至り、その王始めて冠を制し、錦綵(きんさい)を以てこれを為(つく)り、金銀の鏤花を以て飾と為す。
婦人は髪を後に束ね、衣裙襦を垂らし、必ずみな襈(せん)あり。竹梳(ちくそ)を頭に挿し、交(こもごも)歩揺を以てこれに加う。
群下の上の敬うは、ただ両手ともに地を撃つのみ、即ち当(まさ)に拝なるべし。

【大業三年の遣使(日出処天子)】

大業三年(607年)、その王・多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞くならく海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たりて仏法を請う」と。
その国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」と。
帝これを覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く、「蛮夷の書に無礼なる者あり、復た以て聞する勿れ」と。

【大業四年:裴世清の来日】

明年、上、文林郎の裴世清(はいせいせい)を遣わして倭国に使いせしむ。
百済を度りて行き竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国を経る、迥(はる)かに大海の中に在り。
また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。その人、華夏に同じ。以て夷州となすも、疑わらくは明らかにすること能わざるなり。
また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、みな倭王に附庸す。

倭王、小徳の阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け鼓角を鳴らして来迎す。後十日、また大礼の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊労す。
既にその都に至り、その王、清と相見えて大いに悦びて曰く、「我聞く、海西に大隋という礼義の国ありと。故に遣わして朝貢せしむ。我ら夷人、僻(へき)にして海隅に在り、礼義を聞かず。ここを以て境内に稽留し、即ち相見えざりき。今故(ことさら)に道を清め館を飾りて以て大使を待つ。冀(ねがわ)くは大国の惟新の化を聞かん」と。
世清答えて曰く、「皇帝、徳は二儀に並び、沢は四海に流る。王の化を慕うを以て、故に行人を遣わして此に来たりて宣諭せしむ」と。
既にして世清を引きて館に就かしむ。

その後、世清、人を遣わしてその王に謂いて曰く、「朝命既に達す。請う、即ち塗を戒えん」と。
ここにおいて宴享を設けて以て世清を遣わし、復た使者をして清に随い来たりて方物を貢せしむ。此の後、遂に絶ゆ。

現代語訳

【概観・邪馬台国比定】

倭国は百済・新羅の東南、水陸で三千里の大海の中にあり、山島を拠り所にして居住している。魏の時代、通訳を介して中国と通交したのが三十余国あり、みな自ら王と称した。夷人は里数(距離)を知らず、ただ日数で計る。その国境は、東西に五ヶ月の道のり、南北に三ヶ月の道のりであり、それぞれ海に行き着く。地勢は東が高く西が低い。邪摩堆(やばたい)に居住している。すなわち魏志にいう邪馬臺(やまたい)である。
古い記録には、楽浪郡の境および帯方郡から並びに一万二千里離れ、会稽の東に位置して儋耳に近いという。

【道程記事(魏志からの引用)】

帯方郡から倭へは、海岸沿いに行き、韓国を経て南や東へと七千余里、はじめて一つの海を渡る。また一つの海を渡ること千余里で、末盧国に至る。また東南に陸行五百里で伊都国に至る。また東南に行くこと百里で奴国に至る。また東に行くこと百里で不弥国に至る。また南に水行二十日で投馬国に至る。また南に水行十日・陸行一月で邪馬臺国に至る。ここが倭王の居所である。
官には伊支馬があり、次を彌馬獲支、次を奴往鞮という。

【政治体制・官位・風俗】

魏から斉・梁に至るまで、代々王侯が継ぎ、使者を遣わして中国へ通じた。
開皇二十年〔600年〕、倭王で姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、号は阿輩雞彌(あはけみ)という者が、使者を遣わして〔隋の〕朝廷に至った。
上(高祖・文帝)は、役所に命じてその風俗を尋ねさせた。使者が言うには「倭王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けない時、出でて政務を聴き、あぐらをかいて座ります。日が昇れば政務を止め、弟に任せるといいます」。高祖は「それは大いに道理に合わない」と言った。そこで訓令してこれを改めさせた。

王の妻は号して雞彌(けみ)という。後宮には女が六、七百人いる。名づけて太子を利歌彌多弗利(りかみたふり)とする。
城郭はなく、内に十二等の官がある。一を大徳といい、次は小徳、大仁、小仁、大義、小義、大礼、小礼、大智、小智、大信、小信である。定員はない。
軍尼(こうに)が一百二十人おり、中国の牧宰(地方長官)のようである。八十戸に一人の伊尼翼(いにき)を置く、今の里長のようなものである。十人の伊尼翼は一人の軍尼に属する。
その服飾は、男子はスカートと短い上着を着て、その袖は極めて小さい。履物は屨(くつ)のような形で、その上に漆を塗り、これを脚に結びつける。庶民の多くは裸足で、金銀を用いて飾りとすることはできない。古い時代の衣は横幅の布を結び付けて連ね、縫うことがなかった。頭も冠がなく、ただ髪を両耳の上に垂らすだけであった。隋の時代に至り、その王が初めて冠を制定し、錦や絹で作って金銀の透かし彫りで飾りとした。
婦人は髪を後ろに束ね、スカートや上着を長く垂らし、必ず縁取りがある。竹の櫛を頭に挿し、歩くたびに揺れる飾り(歩揺)をこれに加える。
臣下が目上の者を敬うときは、ただ両手で地面を叩くだけで、これが拝礼にあたる。

【大業三年の遣使(日出処天子)】

大業三年〔607年〕、その王の多利思比孤が使者を遣わして朝貢した。使者は「海西の菩薩天子〔隋の皇帝〕が重ねて仏法を復興させたと聞きました。ゆえに使者を遣わして朝拝させ、あわせて沙門数十人が来て仏法を学ばせていただきます」と言った。
その国書には「日出づる処の天子から、書を日没する処の天子に致す。恙ないか」とあった。
帝(煬帝)はこれを見て不快に思い、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼なものがある。二度と取り次ぐな」と言った。

【大業四年:裴世清の来日】

翌年、上は文林郎の裴世清(はいせいせい)を遣わして倭国への使者とした。
百済を渡って行き、竹島に至り、南に𨈭羅国(済州島)を望み、都斯麻国(対馬)を経た。はるか大海の中にある。
また東へ一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(筑紫)に至り、また東へ秦王国に至った。そこの人々は華夏(中国人)と同じであった。夷州〔台湾や沖縄などを指す伝説の島〕かと思われるが、疑わしく明らかにできない。
また十余国を経て海岸に達した。竹斯国より以東は、みな倭王に付属する国である。

倭王は、小徳の阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設けて太鼓や角笛を鳴らして出迎えた。後十日、さらに大礼の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外でねぎらった。
やがてその都に至ると、その王は清と面会して大いに喜んで言った。「私は海西に大隋という礼儀の国があると聞いていました。ゆえに使者を遣わして朝貢させました。我ら夷人は辺境の海の片隅におり、礼儀を聞きません。それゆえ国境に留め置き、すぐにはお会いしませんでした。今、わざわざ道を清め館を飾り、大使をお待ちしました。どうか大国の新しい教化をお聞かせください」。
世清は答えて言った。「皇帝の徳は天地に並び、恩恵は四海に行き渡っています。王が教化を慕われたゆえに、使者を遣わしてここに赴かせ、お言葉を伝えさせました」。
その後、世清を案内して館に就かせた。

のち、世清は人を遣わして王に「朝廷の命令はすでに伝えました。すぐに帰路につかせてください」と言った。
そこで宴会を設けて世清を送り出し、再び使者〔小野妹子ら〕に清に随行させて方物を貢がせた。こののち、ついに〔隋との使節は〕絶えた。

語注

語句読み解説
邪摩堆やばたい大和(ヤマト)の音写とされる。
隋書では「邪靡堆」と表記される。
阿毎多利思比孤あめのたりしひこ「アメノタラシヒコ(天足彦)」。倭王の名前。
推古天皇・聖徳太子など比定諸説あり。
冠位十二階かんいじゅうにかい大徳〜小信の十二等は、聖徳太子が定めた冠位十二階に対応。
軍尼こうに地方行政区の長。
「郡」に対応するとも。
伊尼翼いにき里長相当の行政単位。
「稲置(いなき)」に対応するとも。
跏趺坐かふざ仏教の坐禅の姿勢。
これが中国人に「蛮夷的」と受け取られた。
裴世清はいせいせい607年に来日した隋の外交使節。
『隋書』では唐・太宗(李世民)の諱を避けて「裴清」と表記。
『北史』では本来の「裴世清」の名で記されている。
竹斯国つくしのくに筑紫国(現・福岡県)。
北部九州を示す地名。
秦王国しんおうこく裴世清が「中華と同じ」と感じた国。
倭内の渡来人集落か、あるいは韓国説も。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 「居於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也」という邪馬台国比定の明示的記述が残る
  • 開皇二十年(600年)の倭王の遣使(日本書紀に記録なし)が記されている
  • 大業三年(607年)の「日出処天子」国書(日本書紀の遣隋使記事と対応)
  • 冠位十二階(603年制定)に対応する「内官十二等」の制度が記録されている
  • 北史には魏志倭人伝の道程記事(帯方郡〜邪馬台国)が引用されている(隋書では省略)

💬 解釈が分かれる箇所

「北史」道程記事の欠落について

北史は魏志倭人伝の道程を引用していますが、原文テキストでは「始度一海(始めて一海を渡る)」の直後に「又度一海千余里至末盧国」と続き、本来あるべき「対馬国」や「一支国(一大国)」の記述がごっそり抜け落ちています
いきなり末盧国(松浦)に飛ぶ形になっており、これは北史のテキストが伝来する過程で生じた誤写・欠落と考えられています。

「俀国」と「倭国」の表記

隋書が「俀国」と記したのに対し、ほぼ同内容の北史は「倭国」と記しています。
北史の著者が隋書の誤写(委と妥の混同)を正したのか、それとも隋書の記述が意図的な「俀」であったのかは研究上の論点です。

阿毎多利思比孤(アメノタラシヒコ)は誰か

良田が少なく海産物を食べるという記述が北九州を示唆するとする説と、列島全体の概括とする説がある。

「日出処天子」の意図

対等な関係を求めた独自の天下観とする解釈が一般的ですが、仏典(大智度論)の経文を引用しただけで政治的な敵意はなかったとする説もあります。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「邪摩堆=邪馬臺」という認識は、7世紀の中国側の解釈・同定に過ぎず、3世紀の邪馬台国の実際の所在地(畿内か九州か)を示す直接の証明にはならないという見方もあります。
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