北史とは?

唐の李延寿が659年に著した北朝6王朝(北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋)の通史『北史』の解説。「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬台者也」という邪馬台国比定と、道程記事・阿毎多利思比孤を含む。

『北史(ほくし)』は、唐の李延寿(りえんじゅ)が659年に完成させた、中国南北朝時代の北朝6王朝(439〜618年)の通史です。
倭国伝において「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬台者也(邪摩堆に居る。すなわち魏志のいわゆる邪馬台である)」という邪馬台国比定を記しているほか、『魏志倭人伝』の道程記事を引用しており、7世紀の中国側が倭国をどう認識していたかを示す重要記録です。

【この記事のポイント】
  • 隋書との違い
    ベースの記述は『隋書』とほぼ同じですが、「俀国」ではなく「倭国」と表記され、省略されていた『魏志』の道程記事が引用されているなどの違いがあります。
  • 邪馬台国=ヤマトの記述
    「現在の都(邪摩堆)は、かつての魏志に書かれた邪馬台国である」と明記されており、所在地論争の重要な根拠となっています。
  • 正確な記録の保持
    編纂過程での避諱(皇帝の字を避けるルール)の違いなどにより、遣隋使に対応した使者の名前が「裴清」ではなく、本来の「裴世清」と正確に記されています。
目次

北史とは

北史は、本紀12巻・列伝88巻からなる、中国の南北朝時代の北朝側の通史です。
北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋という北朝6王朝を通史的にまとめており、先行する北朝各王朝の史書(魏書・北斉書・周書)と隋書を統合・整理した形で編纂されました。
巻94 列伝第82「四夷」に倭国に関する記述があります。

史料データ

項目内容
著者李大師(編纂開始)・李延寿(完成)
成立年659年(唐・顕慶4年に上表)
分類中国正史・二十四史・紀伝体・通史(北朝五史の統合)
対象期間北朝(北魏〜隋:386〜618年)
底本ウィキソース(zh.wikisource.org)
倭の記述箇所巻94 列伝第82 四夷 倭国

信憑性と編纂の特徴

北史は二十四史の一つとして正史に位置づけられており、史料価値は高いとされています。
ただし、著者である李延寿が先行する正史(特に『隋書』)の記述を整理・統合した通史であるため、北史独自の新情報は少なく、先行史書の記述を引き継いだものが大半を占めます。

倭国伝についても、大半が『隋書』倭国伝(俀国伝)の内容と一致します。
しかし、隋書では省略されていた『魏志倭人伝』の道程記事(帯方郡〜邪馬台国)が北史では引用されているなど、編纂方針の違いによる記述の差異が確認でき、両者を相互比較する対象として重要です。

成立過程

北史が参照した主な先行史書は、魏書(554年成立)・北斉書(636年)・周書(636年)・隋書(636〜656年)です。

STEP
439年

北魏が華北を統一。南北朝時代の本格化。

STEP
581年

隋が建国。

STEP
620年代

李大師が南北朝通史の編纂を開始。

STEP
628年

李大師が死去、未完のまま遺稿を残す。

STEP
659年

李延寿が『南史』と『北史』を唐の高宗に上表し、正式に成立。

邪馬台国研究における位置づけ

北史は邪馬台国の時代(3世紀)を直接記録したものではありませんが、「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬台者也(邪摩堆に居る。すなわち魏志のいわゆる邪馬台である)」と明記しており、7世紀の中国側の邪馬台国認識を示す重要な史料です。

特に注目されるのは、隋書では「水陸三千里」とだけ記され省略されていた魏志倭人伝の道程記事(帯方郡からの道程)が、北史では「従帯方至倭、循海水行…」と具体的に引用されている点です(ただし対馬や一支国が脱字している特徴があります)。
「在百済新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居」という倭国の地理的位置の記述は、他史料と照合することで、当時の中国における倭国の地理認識の変遷を追う手がかりとなります。

また北史は隋書の「俀国」に対し「倭国」と表記しており、なぜ隋書のみが「俀」字を使用したかという問題を逆証する史料でもあります。
著者・李延寿が先行する北朝史書と隋書を整理・統合した史書であるため、独自情報の発掘よりも「情報がどのように正確に(あるいは不正確に)伝達されたか」を確認する目的で参照されることが多いです。

よくある質問(FAQ)

北史と隋書の倭国伝はどう違いますか?

内容・構成はほぼ同じですが、主な違いは以下の3点です。
① 北史は「倭国」、隋書は「俀国」と表記が異なる。
② 北史には魏志倭人伝の道程記事(帯方→末盧国→伊都国→奴国→邪馬台国)の引用が詳しく、隋書では省略されている(ただし北史の道程記事には一部脱字がある)。
③ 北史では使節の名が「裴世清(はいせいせい)」、隋書では「裴清(はいせい)」と表記が異なる。

北史の「居於邪摩堆」は畿内説の根拠になりますか?

「邪摩堆(ヤマト)に居る。すなわち魏志のいわゆる邪馬台である」という記述は、隋書「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬台者也」とほぼ同内容であり、邪馬台国畿内説の重要な根拠の一つとされています。ただし、7世紀の中国人が3世紀の地名を正確に継承・同定できたかについては、当時の政治的意図や伝聞の可能性を含めてさまざまな議論があります。

隋書では「裴清」だった名前が、なぜ北史では「裴世清」なのですか?

『隋書』は唐の第2代皇帝・太宗(李世民)の命で編纂されたため、「世」の字を使うことを避ける「避諱(ひき)」という中国の制度により「裴清」と記されました。一方『北史』では避諱の基準や編纂方針の違いから、本来の名である「裴世清」として記録されたと考えられています。日本の『日本書紀』も本来の「裴世清」と記しています。

まとめ

『北史』は唐の李延寿が父の遺志を継いで659年に完成させた、北朝6王朝の通史です。
倭については『隋書』の記述をベースにしつつも、「俀国」を「倭国」に直し、省略されていた『魏志倭人伝』の道程記事を補うなど、編纂者による整理と再構成が見られます。

「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬台者也」という記述や、聖徳太子時代の遣隋使、冠位十二階などの記録を含んでおり、『隋書』と並んで7世紀の倭国の実態と、邪馬台国認識の継承を比較・検討する上で不可欠な史料です。

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