『北史』巻94「四夷・流求国」の記述を収録する。隋の大業年間に煬帝が派遣した朱寛や陳稜による探索・侵攻の記録と、同時期に隋を訪れていた倭国使が流求の武具を「夷邪久(いやく)国のものだ」と証言した重要な記事を含む。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 北史(ほくし) |
| 巻・章 | 巻94 列伝第82 四夷 倭国 |
| 著者 | 李延寿(りえんじゅ) |
| 成立年 | 659年 |
| 分類 | 中国正史・二十四史・紀伝体・通史(北朝五史の統合) |
| 底本 | 中国哲学書電子化計画(ctext.org) |
| 参照URL | https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=234060 |
| 備考 | 『北史』倭国伝と同巻に収録されている。 内容は『隋書』流求国伝とほぼ同じ。 |

原文
【流求の概観と風俗】
流求國居海島之中當建安郡東水行五日而至土多山洞其王姓歡斯氏名渴剌兜不知其由來有國代數也
(中略)
『北史』卷94 列伝第82 四夷
【隋の探索と武力侵攻・倭国使の証言】

大業元年海師何蠻等毎春秋二時天清風靜東望依稀似有煙霧之氣亦不知幾千里
三年煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗何蠻言之遂與蠻倶往因到流求國言不相通掠一人而返明年帝復令寬慰撫之流求不從寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也
帝遣武賁郎將陳稜朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海撃之至高華嶼又東行二日至𪓟(※)鼊嶼又一日便至流求
『北史』卷94 列伝第82 四夷
初稜將南方諸國人從軍有崐崘人頗解其語遣人慰諭之流求不從拒逆官軍稜撃走之進至其都頻戰皆敗焚其宮室虜其男女數千人載軍實而還自爾遂絶
書き下し文
【流求の概観と風俗】
流求国(りゅうきゅうこく)は海島の中に居(お)り、建安郡の東に当たる。水行すること五日にして至る。土(地)は山洞多し。その王の姓は歓斯(かんし)氏、名は渇刺兜(かつらと)、その由来と国を有(たも)つ代数を知らざるなり。
(中略)
【隋の探索と武力侵攻・倭国使の証言】
大業元年(605年)、海師の何蛮(かばん)ら、春・秋の二時ごとに、天清く風静かなれば、東を望むに依稀(いき)として煙霧の気あるに似たり。また幾千里なるかを知らず。
三年(607年)、煬帝、羽騎尉の朱寛(しゅかん)をして海に入りて異俗を求訪せしむ。何蛮これを言ひ、遂に蛮と倶(とも)に往き、因りて流求国に到る。言(ことば)相通ぜず、一人を掠(かす)めて返る。
明年(608年)、帝また寛をしてこれを慰撫せしむるも、流求従わず。寛、その布甲(ふこう)を取って還る。時に倭国の使、来朝しており、これを見て曰く、「これ夷邪久(いやく)国人の用いる所なり」と。
帝、武賁郎将(ぶほんろうしょう)の陳稜(ちんりょう)、朝請大夫の張鎮州(ちょうちんしゅう)を遣わし、兵を率い義安(ぎあん)より海に浮びてこれを撃たしむ。高華嶼(こうかしょ)に至り、また東行すること二日にして𪓟鼊嶼(ひへきしょ)に至り、また一日にして便ち流求に至る。
初め、稜、南方諸国人を将(ひき)いて従軍せしむ。崐崘(こんろん)人ありて頗るその語を解す。人を遣わしてこれを慰諭せしむるも、流求従わず、官軍を拒逆(きょぎゃく)す。稜、撃ってこれを走らせ、進んでその都に至る。頻(しき)りに戦いて皆敗(やぶ)り、その宮室を焚き、その男女数千人を虜(とりこ)にし、軍実を載せて還る。爾(これ)より遂に絶ゆ。
現代語訳
【流求の概観と風俗】
流求国は海島の中に位置し、建安郡〔現在の福建省付近〕の東にあたる。船で五日行くと到着する。土地には山や洞窟が多い。その王の姓は歓斯(かんし)氏、名は渇刺兜(かつらと)といい、その(王権の)由来や、国を治めて何代になるかはわからない。
(中略)
【隋の探索と武力侵攻・倭国使の証言】
大業元年〔605年〕、海師〔航海士〕の何蛮(かばん)らが、(毎年)春と秋の二つの季節ごとに、天が晴れわたり風が静かなとき、東の方角を望むと、かすかに煙霧のような気配が見える(と報告した)。ただし(距離が)何千里あるかはわからなかった。
大業三年〔607年〕、煬帝(ようだい)は羽騎尉の朱寛(しゅかん)に命じて海へ入らせ、見知らぬ風俗を探索させた。何蛮がこれ(航路)を説明し、ついに何蛮とともに往き、そのまま流求国に到着した。しかし言葉が通じず、一人をかすめ取って〔拉致して〕帰還した。
翌年〔608年〕、帝は再び朱寛に命じてこれを慰撫させようとしたが、流求は従わなかった。朱寛はその布甲〔布製の鎧〕を取って帰還した。ちょうどその時、倭国の使者〔小野妹子ら遣隋使と推定される〕が来朝しており、これ(布甲)を見て「これは夷邪久(いやく)国の人が用いているものです」と言った。
帝は、武賁郎将の陳稜(ちんりょう)と朝請大夫の張鎮州に命じ、兵を率いて義安〔現在の広東省付近〕から海路で流求を攻撃させた。高華嶼(こうかしょ)に到着し、さらに東へ二日航行して𪓟鼊嶼(ひへきしょ)に到着し、さらに一日で流求に到着した。
当初、陳稜は南方の諸国人を従軍させていた。その中に崐崘(こんろん)人がおり、流求の言葉をよく理解できたため、人を遣わして慰諭させたが、流求は従わず、官軍を迎え撃った。陳稜はこれを撃退して敗走させ、進軍してその都に達した。流求はしきりに戦いを挑んだがみな敗れ、(陳稜は)その宮室を焼き払い、男女数千人を捕虜にし、戦利品を積んで帰還した。これ以降、ついに(流求との関わりは)絶えた。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 流求国 | りゅうきゅうこく | 現在の台湾を指すのか、琉球諸島を指すのかで比定論争がある。 |
| 依稀 | いき | ぼんやりとしているさま。かすかな様子。 『隋書』では「依希」と表記されるが意味は同じ。 |
| 建安郡 義安 | けんあんぐん ぎあん | 出航地。 建安は現在の福建省福州市付近、義安は広東省潮州市付近。 |
| 大業三年 | 607年 | 隋が流求に朱寛を派遣した年。 『北史』倭国伝において倭国が「日出処天子」の国書を持参した年。 |
| 布甲 | ふこう | 隋軍が持ち帰った流求の布製の鎧。 |
| 倭国使 | わこくし | 大業三年〜四年に隋に滞在していた倭の使者。 時期的に小野妹子ら遣隋使の一行である可能性が極めて高い。 |
| 夷邪久国 | いやくこく | 倭国使が名指しした国名。 「ヤク」の音写とされる 日本の屋久島、あるいはその先の南西諸島(南島)全般を指す言葉とされる。 |
| 崐崘人 | こんろんじん | 東南アジア系の民族を指す中国側の汎称。 彼らが流求の言葉を理解できたという記述が重要。 流求の言語系統を推測する手がかりとされる。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 大業三年(607年)以降、隋が「流求国」へ使者を派遣し、のちに陳稜による武力侵攻を行ったことが記されている
- 陳稜の軍事行動により、流求の宮室が焼かれ、数千人の男女が捕虜として連行されたことが記されている
- 同時期に隋の宮廷にいた倭国使(遣隋使)が、流求の武具を見て「夷邪久(ヤク)」のものであると特定した事実が記録されている
- 『北史』の流求国伝の記述は、先行する『隋書』流求国伝のテキストとほぼ完全に一致している

💬 解釈が分かれる箇所
- 「流求国」は台湾か沖縄か(比定論争)
-
建安郡(福建省)から「水行五日」という距離感、義安(広東省)からの航路、および風俗の記述をめぐり、これが現在の「台湾」を指すのか、それとも「沖縄(琉球諸島)」を指すのかは、歴史学界で長年の論争となっている。
- 倭国使による「夷邪久国」発言の意味
-
倭国の使者が隋の宮廷で遠く離れた南島の武具を言い当てたという記述は、大業三年(607年)の段階で、すでに日本の大和王権が南西諸島方面(屋久島以南)と独自に接触を持ち、その物産や文化に関する知識を有していたことを証明する貴重な物証と解釈されている。
- 『隋書』と『北史』の関係性
-
『北史』は唐代に李延寿が編纂したものであり、隋代の歴史については先行する『隋書』をベースにしている。
そのため流求国の記述もほぼ同じであるが、文字の異同(例:『隋書』の「依希」が『北史』では「依稀」になっているなど)を比較することで、テキストの伝存過程を検証する材料となる。
🔍 仮説段階(要注意)
- 「夷邪久(ヤク)国」が具体的にどの島(屋久島単体か、奄美・沖縄を含む総称か)を指していたかは断定できない。

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