隋書【流求国伝】原文と現代語訳

隋書巻81列伝第46東夷「俀国」の原文と現代語訳。「俀国」という特異な表記のもと、冠位十二階・阿毎多利思比孤・「日出処天子」国書・裴清の来日を記した7世紀前半成立の最重要史料の一つ。

『隋書』巻81「東夷・流求国」の記述を収録する。大業年間の煬帝による探索と数千人規模の捕虜連行の記録、および同時代に隋を訪れていた倭国使(遣隋使)が流求の武具を見て「夷邪久(いやく)国のものだ」と証言した重要な記事を含む。

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当サイトの現代語訳は、読者の理解を助けるため、文脈に応じた補足や標準的な語釈に基づいて作成しています。そのため翻訳上どうしても一定の解釈が含まれますが、特定の学説(台湾説・沖縄説など)を支持・誘導する意図は一切ありません。解釈が分かれる箇所や論争については、記事後半の「論点」セクションにて可能な限り併記し、事実と解釈を分けて検証できるように努めています。

目次

史料データ

項目内容
書名隋書(ずいじょ・ずいしょ)
巻・章巻81 列伝第46 東夷 俀国
著者魏徴(ぎちょう)ら
成立年本紀・列伝は636年(唐・貞観10年)
分類中国正史・二十四史・紀伝体・断代史
底本ウィキソース(zh.wikisource.org)
参照URLhttps://zh.wikisource.org/wiki/隋書/卷81
備考『隋書』俀国(倭国)伝と同巻に収録されている

原文

【流求の概観と風俗】

流求國居海島之中當建安郡東水行五日而至土多山洞其王姓歡斯氏名渴剌兜不知其由來有國代數也
(中略)

『隋書』第81巻 列伝第46 東夷

【隋の探索と武力侵攻・倭国使の証言】

大業元年海師何蠻等毎春秋二時天清風靜東望依希似有煙霧之氣亦不知幾千里
三年煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗何蠻言之遂與蠻倶往因到流求國言不相通掠一人而返
明年帝復令寬慰撫之流求不從寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也
帝遣武賁郎將陳稜朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海撃之至高華嶼又東行二日至𪓟鼊嶼又一日便至流求
初稜將南方諸國人從軍有崐崘人頗解其語遣人慰諭之流求不從拒逆官軍稜撃走之進至其都頻戰皆敗焚其宮室虜其男女數千人載軍實而還自爾遂絶

『隋書』第81巻 列伝第46 東夷

書き下し文

【流求の概観と風俗】

流求国(りゅうきゅうこく)は海島の中に居(お)り、建安郡の東に当たる。水行すること五日にして至る。土(地)は山洞多し。その王の姓は歓斯(かんし)氏、名は渇刺兜(かつらと)、その由来と国を有(たも)つ代数を知らざるなり。
(中略)

【隋の探索と武力侵攻・倭国使の証言】

大業元年(605年)、海師の何蛮(かばん)ら、春・秋の二時ごとに、天清く風静かなれば、東を望むに依希(いき)として煙霧の気あるに似たり。また幾千里なるかを知らず。

三年(607年)、煬帝、羽騎尉の朱寛(しゅかん)をして海に入りて異俗を求訪せしむ。何蛮これを言ひ、遂に蛮と倶(とも)に往き、因りて流求国に到る。言(ことば)相通ぜず、一人を掠(かす)めて返る。

明年(608年)、帝また寛をしてこれを慰撫せしむるも、流求従わず。寛、その布甲(ふこう)を取って還る。時に倭国の使、来朝しており、これを見て曰く、「これ夷邪久(いやく)国人の用いる所なり」と。

帝、武賁郎将(ぶほんろうしょう)の陳稜(ちんりょう)、朝請大夫の張鎮州(ちょうちんしゅう)を遣わし、兵を率い義安(ぎあん)より海に浮びてこれを撃たしむ。高華嶼(こうかしょ)に至り、また東行すること二日にして𪓟鼊嶼(ひへきしょ)に至り、また一日にして便ち流求に至る。

初め、稜、南方諸国人を将(ひき)いて従軍せしむ。崐崘(こんろん)人ありて頗るその語を解す。人を遣わしてこれを慰諭せしむるも、流求従わず、官軍を拒逆(きょぎゃく)す。稜、撃ってこれを走らせ、進んでその都に至る。頻(しき)りに戦いて皆敗(やぶ)り、その宮室を焚き、その男女数千人を虜(とりこ)にし、軍実を載せて還る。爾(これ)より遂に絶ゆ。

現代語訳

【流求の概観と風俗】

流求国は海島の中に位置し、建安郡〔現在の福建省付近〕の東にあたる。船で五日行くと到着する。土地には山や洞窟が多い。その王の姓は歓斯(かんし)氏、名は渇刺兜(かつらと)といい、その(王権の)由来や、国を治めて何代になるかはわからない。
(中略)

【隋の探索と武力侵攻・倭国使の証言】

大業元年〔605年〕、海師〔航海士〕の何蛮(かばん)らが、(毎年)春と秋の二つの季節ごとに、天が晴れわたり風が静かなとき、東の方角を望むと、かすかに煙霧のような気配が見える(と報告した)。ただし(距離が)何千里あるかはわからなかった。

大業三年〔607年〕、煬帝(ようだい)は羽騎尉の朱寛(しゅかん)に命じて海へ入らせ、見知らぬ風俗を探索させた。何蛮がこれ(航路)を説明し、ついに何蛮とともに往き、そのまま流求国に到着した。しかし言葉が通じず、一人をかすめ取って〔拉致して〕帰還した。

翌年〔608年〕、帝は再び朱寛に命じてこれを慰撫させようとしたが、流求は従わなかった。朱寛はその布甲〔布製の鎧〕を取って帰還した。ちょうどその時、倭国の使者〔小野妹子ら遣隋使と推定される〕が来朝しており、これ(布甲)を見て「これは夷邪久(いやく)国の人が用いているものです」と言った。

帝は、武賁郎将の陳稜(ちんりょう)と朝請大夫の張鎮州に命じ、兵を率いて義安〔現在の広東省付近〕から海路で流求を攻撃させた。高華嶼(こうかしょ)に到着し、さらに東へ二日航行して𪓟鼊嶼(ひへきしょ)に到着し、さらに一日で流求に到着した。

当初、陳稜は南方の諸国人を従軍させていた。その中に崐崘(こんろん)人がおり、流求の言葉をよく理解できたため、人を遣わして慰諭させたが、流求は従わず、官軍を迎え撃った。陳稜はこれを撃退して敗走させ、進軍してその都に達した。流求はしきりに戦いを挑んだがみな敗れ、(陳稜は)その宮室を焼き払い、男女数千人を捕虜にし、戦利品を積んで帰還した。これ以降、ついに(流求との関わりは)絶えた。

語注

語句読み解説
流求国りゅうきゅうこく中国の正史において初めて登場した「流求」。
現在の台湾を指すのか、琉球諸島を指すのかで比定論争がある。
建安郡
義安
けんあんぐん
ぎあん
出航地。
建安は現在の福建省福州市付近、義安は広東省潮州市付近。
大業三年607年隋が流求に朱寛を派遣した年。
同時に倭国が「日出処天子」の国書を持参した年でもある。
布甲ふこう隋軍が持ち帰った流求の布製の鎧。
倭国使わこくし大業三年〜四年に隋に滞在していた倭の使者。
時期的に小野妹子ら遣隋使の一行である可能性が極めて高い。
夷邪久国いやくこく倭国使が名指しした国名。
「ヤク」の音写とされ、日本の屋久島が通説。
その先の南西諸島(南島)全般を指す言葉とする説もある。
高華嶼
𪓟鼊嶼
こうかしょ
ひへきしょ
義安から流求へ至る途中の島。
この島々をどこに比定するかも台湾説・沖縄説の争点。
崐崘人こんろんじん東南アジア系の民族を指す中国側の汎称。
彼らが流求の言葉を理解できたという記述が重要。
流求の言語系統を推測する手がかりとされる。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 大業三年(607年)以降、隋が「流求国」へ使者を派遣し、のちに武力侵攻を行ったことが記されている
  • 陳稜の軍事行動により、流求の「都」が焼かれ、数千人の男女が捕虜として中国へ連行されたことが記されている
  • 同時期に隋の宮廷にいた倭国使(遣隋使)が、流求の武具を見て「夷邪久(ヤク)」のものであると特定した事実が記録されている

💬 解釈が分かれる箇所

「流求国」は台湾か沖縄か(比定論争)

建安郡(福建省)から「水行五日」という距離感、義安(広東省)からの航路(高華嶼などの経由地)、および風俗の記述をめぐり、これが現在の「台湾」を指すのか、それとも「沖縄(琉球諸島)」を指すのかは、歴史学界で長年の論争となっている。

「男女数千人の捕虜」の実態

もし流求が沖縄であった場合、7世紀初頭の段階で「都」と呼べるような拠点が焼き払われ、一挙に「数千人」もの人間が連行されたことになる。
これが実数であれば当時の南島社会に壊滅的な打撃を与えたはずであり、考古学的な発掘成果とどう整合させるかが議論の的となる。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「夷邪久(ヤク)国」が具体的にどの島(屋久島単体か、奄美・沖縄を含む総称か)を指していたかは断定できない。
  • 南方出身の崐崘(こんろん)人が流求の言葉を理解できたという記述から、オーストロネシア語族との関連を指摘する仮説もあるが、言語の完全な特定には至っていない。
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