翰苑【蕃夷部倭関連記事】原文と現代語訳

唐の張楚金編『翰苑』巻30蕃夷部の倭関連記事を全文掲載。魏略・後漢書・魏志・宋書・廣志・槐志・括地志など複数の古記録を引用し、「邪馬嘉国」「難升未利」「正始四年」など他書に見られない情報を含む重要な類書史料。

『翰苑』巻30「蕃夷部」の倭関連記事を収録する。後漢書・魏志・魏略の引用に加え、他書未収録の廣志・括地志の引用を含む。
なお、『翰苑』の写本には誤字・脱字が非常に多いことで知られているが、本ページでは史料のありのままの姿を伝えるため、明らかな誤写(「魏志」を「槐志」とする等)も原文のまま掲載し、語注で補足する形式をとっている。

目次

史料データ

項目内容
書名翰苑(かんえん)
巻・章巻第30 蕃夷部
著者張楚金(ちょうそきん)
成立年660年頃(唐・顕慶5年)
分類類書(るいしょ)・駢文類書
現状巻30のみが大宰府天満宮に現存(日本に伝来した唯一の巻)。国宝
形式見出し対句文(駢文)+各種史料引用の組み合わせ

原文と書き下し文と現代語訳

【倭王の都・地理】

原文

翰苑の冒頭部分
翰苑の冒頭部分

憑山負海鎭馬臺以建都

『翰苑』巻第30 蕃夷部

山を憑(たの)みとし海を負(せお)い、馬台(ばだい)を鎮として都を建つ。

「去と至」が組み合わせてある漢字は誤字か?

引用

後漢書曰
倭在朝東南大海中依山島居凡百餘國自武帝滅朝鮮使譯通漢於者州餘國稱王
其大倭王治邦臺楽浪郡徼去其國万二千里甚地大較在會稽東与珠雀儋耳相近

『翰苑』巻第30 蕃夷部

倭は〔朝鮮の〕東南の大海の中に在り、山島に依りて居を構う。凡そ百余国有り。武帝の朝鮮を滅ぼして以来、使訳を以て漢に通じし州余国、みな王を称す。
其の大倭王は邦台(ほうたい)を治む。楽浪郡の境より去ること一万二千里。其の地は大較(おおよそ)会稽の東に在り、朱雀・儋耳と相近し。


魏志曰
倭人在帶方東南炙問倭地絶在海中洲島之山或絶或連周旋可五千餘里
四面倶極海自營州東南經新羅至其國也
倭人在帯方東南参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里
分軄命官統女王而列部

『翰苑』巻第30 蕃夷部

倭人は帯方の東南に在り。炙問〔※参問の誤記〕するに倭地は大海に絶し、洲島の山(上)に在り、断えたり連なったりして、周旋すれば五千余里。四面はともに海を極む。営州の東南から新羅を経てその国に至る。
倭人は帯方の東南に在り。参問するに倭地は海中の洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周旋すること五千余里ばかり。(※写本上の文章の重複・錯乱)
官職を分かち官を命じ、女王を統領として各部を列ぬ。


魏略曰
従帶方至倭循海岸水行暦韓國到拘耶韓国七十餘里始度一海千餘里至對馬國
其大官曰卑拘副曰卑奴無良田南北布糴南度海至一支國置官至對同地方三百里
又度海千餘里至末盧國人善捕魚能浮没水取之東南五東里到伊都國
戸万餘置曰爾支副曰洩溪觚柄渠觚其國王皆屬王女也

『翰苑』巻第30 蕃夷部

帯方郡から倭に至るには、海岸沿いに水行し、韓国を経て拘耶韓国に到ること七十余里〔※七千余里の誤写〕。始めて一海を度ること千余里にして対馬国に至る。
其の大官を卑拘(ひく)と曰い、副を卑奴(ひな)と曰う。良田無し。南北に糴(こめ)を布(もと)む。南に海を度りて一支国へ。官を置くこと対馬に同じ。地は方三百里。
また海を度ること千余里にして末盧国へ。人は魚を捕るを善くし、水に浮没してこれを取ること能う。東南五百里にして伊都国へ。
戸は万余。置く官を爾支(にき)と曰い、副を洩渓觚(えっけこ)・柄渠觚(へいくこ)と曰う。其の国王はみな女王に属す。

【女王の統治と道程】

原文

分軄命官統女王而列部

『翰苑』巻第30 蕃夷部

職を分かち官を命じ、女王を統領として各部を列ねる。

引用

魏略曰
従帶方至倭循海岸水行暦韓國到拘耶韓国七十餘里始度一海千餘里至對馬國
其大官曰卑拘副曰卑奴無良田南北布糴南度海至一支國置官至對同地方三百里
又度海千餘里至末盧國人善捕魚能浮没水取之東南五東里到伊都國
戸万餘置曰爾支副曰洩溪觚柄渠觚其國王皆屬王女也

『翰苑』巻第30 蕃夷部

帯方郡から倭に至るには、海岸沿いに水行し、韓国を経て拘耶韓国に到ること七十余里〔※七千余里の誤写〕。始めて一海を度ること千余里にして対馬国に至る。其の大官を卑拘(ひく)と曰い、副を卑奴(ひな)と曰う。良田無し。南北に糴(こめ)を布(もと)む。南に海を度りて一支国へ。官を置くこと対馬に同じ。地は方三百里。また海を度ること千余里にして末盧国へ。人は魚を捕るを善くし、水に浮没してこれを取ること能う。東南五百里にして伊都国へ。戸は万余。置く官を爾支(にき)と曰い、副を洩渓觚(えっけこ)・柄渠觚(へいくこ)と曰う。其の国王はみな女王に属す。

【台与の統治】

原文

卑彌娥惑翻叶群情臺與幼齒方諧衆望

『翰苑』巻第30 蕃夷部

卑弥呼は〔妖術で人々を〕惑わして群情を翻叶(ほんきょう)し、台与は幼き歯ながら方に衆望に諧(かな)えり。

引用

後漢書曰
安帝永初元年有倭面上國王師升至桓遷之間倭國大乱更相攻伐歴年無主
有一女子名曰卑弥呼死更立男王國中不服更相誅煞
復立卑弥呼宗女臺與年十三為王國中遂定
其國官有伊支馬次曰弥馬升次曰弥馬獲次曰奴佳鞮之也

『翰苑』巻第30 蕃夷部

安帝の永初元年〔107年〕、倭面(わもて)の国王・師升有り…桓帝・霊帝の間に倭国大いに乱れ、更に相い攻伐して歴年主無し。
一女子有り、名を卑弥呼と曰う。〔卑弥呼が〕死して更に男王を立てるも国中服せず、更に相誅殺す。
復た卑弥呼の宗女・台与を立て、年は十三にして王と為し、国中遂に定まる。
其の国の官には伊支馬有り、次を弥馬升と曰い、次を弥馬獲と曰い、次を奴佳鞮と曰う也。

【文身と太伯の後裔】

原文

分身點面猶稱太伯之苗

『翰苑』巻第30 蕃夷部

身に文(いれずみ)し面に点して、なお太伯の苗裔と称す。

引用

魏略曰
女王之南又有狗奴國女男子爲王其官曰拘右智卑狗不屬女王也
自帶方至女國万二千餘里其俗男子皆點而文
聞其舊語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於會稽断髪分身以避蛟龍之吾今倭人亦分身以厭水害也

『翰苑』巻第30 蕃夷部

女王の南にまた狗奴国有り。女男子〔※男王などの誤記か〕が王と為り、其の官を「拘右智卑狗(くうちびく)」と曰う。女王に属さざるなり。
帯方から女国まで一万二千余里。其の俗、男子はみな点して文(ぶん)あり。
其の旧語を聞くに、自ら「太伯の後裔なり」と謂う。昔、夏の少康の子、会稽に封ぜられ、断髪・文身して蛟龍の吾〔※害の誤記〕を避く。今の倭人も文身して以て水の害を厭う(退ける)なり、と。

【阿輩雞彌の称号】

原文

阿輩雞彌自表天兒之稱

『翰苑』巻第30 蕃夷部

阿輩雞彌(おほきみ)は、自ら「天の子(天兒)」という称号を表明す。

引用

宋書曰
永初中倭國有王曰讃至元嘉中讃死弟珎立自稱使持節都督安東大將軍倭國王
順帝時遣使上表云自昔禰東征毛人五十五國西服衆夷六渡平海北九十五國
今案其王姓阿毎國号爲阿輩雞華言天児也父子相傳王有官女六七百人王長子号哥弥多弗利華言太子

『翰苑』巻第30 蕃夷部

永初年間に倭国に讃と曰う王有り。元嘉年間に至りて讃死し弟の珎立ち、自ら「使持節・都督・安東大将軍・倭国王」と称す。順帝の時、使を遣わして上表して云う、自昔より祖禰が東征して毛人五十五国・西服して衆夷六十六国・海北九十五国を平定したと。今、其の王の姓を案ずるに阿毎(あめ)と曰い、国号を「阿輩雞彌」と曰い、漢語では「天の子(天兒)」の意なり。父子相伝。王には侍官女六、七百人有り。王の長子を「哥弥多弗利(かみたほり)」と号し、漢語では「太子」の意。

【冠位十二階】

原文

因禮義而標袟卽智信以命官

『翰苑』巻第30 蕃夷部

礼義に因りて袟(ちつ)を標し、即ち智信もて官を命ず。

引用

括地志曰
倭國其官有十二等
一曰麻卑兜吉寐華言大德
二曰小德三曰大仁四曰小仁五曰六〈大〉義六曰小義
七曰大礼八曰小礼九曰大智十曰小智十一曰大信十二曰小信

『翰苑』巻第30 蕃夷部

倭国の其の官に十二等有り。一を「麻卑兜吉寐(まひとけみ)」と曰い、漢語では「大徳」の意なり。二は小徳、三は大仁、四は小仁、五は大義、六は小義、七は大礼、八は小礼、九は大智、十は小智、十一は大信、十二は小信。

【伊都国と斯馬国】

原文

邪届伊都傍連斯馬

『翰苑』巻第30 蕃夷部

邪〔馬台国〕の端に伊都〔国〕が届き、傍らに斯馬〔国〕が連なる。

引用

廣志曰
倭國東南陸行五百里到伊都國
南至邪馬嘉国百女國以北其戸數道里可得略載
次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭西南海行一日有伊邪分國
無布帛以革爲衣蓋伊耶國也

『翰苑』巻第30 蕃夷部

倭国〔の末盧国〕より東南に陸行五百里にして伊都国に到る。南に「邪馬嘉国(やまかこく)」有り。百〔余〕国は女国以北にして、其の戸数と道里はほぼ略載することを得。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国有り。安倭〔※又倭の誤写〕の西南、海行一日にして伊邪分国〔※伊邪久国の誤写〕有り、布帛無く革を以て衣と為す。蓋し伊耶国なり。

【金印の授与(光武帝)】

原文

中元之際紫綬之榮

『翰苑』巻第30 蕃夷部

中元の際〔57年〕、紫綬(金印)の栄誉を賜う。

引用

漢書地志曰
夫餘楽浪海中有倭人分為百餘國以歳時獻見

『翰苑』巻第30 蕃夷部

〔夫余および〕楽浪の海中に倭人有り、分れて百余国と為り、以て歳時に献見す。


後漢書曰
光武中元年二倭國奉貢朝賀使人自稱大夫光武賜以印綬
安帝初元年倭王師升等獻生口百六十

『翰苑』巻第30 蕃夷部

光武帝の中元年二〔※中元二年の誤写〕、倭奴国が奉貢・朝賀し、使人は大夫と自称す。光武帝、印綬を以て賜う。安帝の初元年〔※永初元年の誤写〕、倭国王の師升ら、生口百六十人を献ず。

【景初の遣使と外交(槐志・重要)】

原文

景初之辰恭文錦之獻

『翰苑』巻第30 蕃夷部

景初の年〔239年〕、文錦(高級絹織物)を恭しく献ず。

引用

槐志曰
景初三年倭女王遣大夫難升未利等獻男生口四人女生六人斑布二疋二尺
詔以爲新魏倭王假金印紫綬
正始四年倭王復遣大夫伊聲耆振邪拘等八人上獻生口也

『翰苑』巻第30 蕃夷部

景初三年〔239年〕、倭の女王、大夫の難升未利(なしめり)等を遣わして、男の生口四人・女の生口六人・斑布二匹二尺を献ず。詔して新たなる魏の倭王〔※親魏倭王の誤写〕と為し、金印紫綬を仮(か)す。正始四年〔243年〕、倭王また大夫の伊声耆・振邪拘(いせき・しんやく)ら八人を遣わして生口を上献す。

語注

語句読み解説
張楚金ちょうそきん唐代の文人・行政官。
660年頃に翰苑を編纂
駢文べんぶん対句を基本とした中国の文体。
翰苑の見出し文はこの形式。
分身ぶんしん「文身(いれずみ)」の誤写と思われる。
本史料のテキストの不完全さを象徴する文字。
槐志かいし魏志』の誤写と思われる。
草書の「魏」の右側が省略されて木へんの「槐」に見間違えられたもの。
記述内容は『魏志倭人伝』の外交記事と一致する。
新魏倭王しんぎわおう「親魏倭王」の誤写と思われる。
難升未利なしめり魏志では「難升米(なしめ)」。
写本過程で「米」が「未利」に分離・誤写されたと考えられる。
廣志こうし晋の郭義恭が著した地理書の逸文。
倭の道程と「邪馬嘉国」を記す。
邪馬嘉国やまかこく廣志が記す女王国の名。
「邪馬台国」の別表記か、別の地名か。
安倭あんわ「又倭(また、倭の…)」の誤写と思われる。
伊邪分国いやぶんこく「伊邪久国(いやくこく)」の誤写と思われる。
括地志かつちし唐の魏王李泰が編纂した地理書(645年)。
冠位十二階の和語名を記録。
麻卑兜吉寐まひとけみ括地志が記す大徳の和語音写。
「まひとけみ(真人君)」など解釈が分かれる。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 翰苑は660年頃成立で、9世紀以降の多くの史書より早く倭情報を記録した
  • 魏略の倭人条を引用する現存ほぼ唯一の史料である
  • 「廣志」所引の記事は「邪馬嘉国」という他書にない地名を記録している
  • 台与の年齢を「年十三」と記すのは翰苑(後漢書引用)が唯一である

💬 解釈が分かれる箇所

『翰苑』特有の誤字・誤写の解釈

本ページに「原文ママ」で掲載した通り、『翰苑』の写本には驚くほど多くの誤字が含まれます(「文」を「分」、「魏」を「槐」、「親」を「新」、「又」を「安」、「久」を「分」など)。
これらの文字を独自の事実として深読みすべきか、単なる筆写エラーとして正史の記述に校訂して読むべきかは、史料批判の重要な訓練となります。

「邪馬嘉国」と邪馬台国の関係

廣志が「邪馬嘉国(やまかこく)」と記すのは、「邪馬台国(やまたいこく)」の異形か、あるいは廣志が参照した別の先行資料に基づく別地名か。
廣志が晋代の成立であることを考慮すると、同時代の情報源を持つ可能性があります。

括地志の「麻卑兜吉寐」

大徳に対応する和語音写。「真人貴(まひとけ)みる」「大人見(まひとけみ)」など解釈が分かれます。
この音写が603年制定の冠位十二階の実際の名称を反映するなら、当時の日本語音韻の証拠になります。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 「台与年十三」の記述が正確なら、台与の即位年(248〜249年頃)から生年が推定できます。この記述の根拠となった先行資料は何だったのでしょうか。
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