『魏略』(原書散逸)の倭関連逸文を各種引用書から集成して収録する。
伊都国戸数「万余戸」など魏志倭人伝と異なる記述を含む。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 魏略(ぎりゃく) |
| 著者 | 魚豢(ぎょかん) |
| 成立年 | 3世紀中〜後半 |
| 現状 | 原書散逸。逸文のみ現存 |
| 主要引用書 | 翰苑(張楚金、665年頃)、三国志裴松之注(429年)、漢書顔師古注(641年)など |

逸文集成・原文と現代語訳
【1】概観・地理(漢書顔師古注引)
魏略云倭在帶方東南大海中依山島為國度海千里復有國皆倭種
『漢書』卷28 地理志 燕地条 顔師古注
魏略に云う、倭は帯方の東南の大海中に在り、山島に依りて国を為す。海を度ること千里にして復た国有り、皆倭種なり。
【2】道程記事(翰苑・蕃夷部引)※最重要逸文
従帶方至倭循海岸水行暦韓國到拘耶韓国七十餘里
『翰苑』巻30 蕃夷部
始度一海千餘里至對馬國
其大官曰卑拘副曰卑奴
無良田南北布糴
南度海至一支國
置官至對同地方三百里
又度海千餘里至末盧國
人善捕魚能浮没水取之
東南五百里到伊都國
戸万餘置曰爾支副曰洩溪觚柄渠觚
其國王皆屬王女也
女王之南又有狗奴國女男子爲王
其官曰拘右智卑狗不屬女王也
自帶方至女國万二千餘里
其俗男子皆點而文聞其舊語自謂太伯之後
昔夏后少康之子封於會稽断髪文身以避蛟龍之吾今倭人亦文身以厭水害也
帯方より倭に至るは、海岸に循い水行し、韓国を暦(へ)て拘耶韓国に到ること七十余里。始めて一海を度ること千余里、対馬国に至る。其の大官を卑拘と曰い、副を卑奴と曰う。良田無く、南北に布糴(ふてき)す。南に海を度りて一支国に至る。官を置くは対馬と同じく地方三百里。又た海を度ること千余里にして末盧国に至る。人は善く魚を捕らえ、能く水に浮没して之を取る。東南五百里にして伊都国に到る。戸は万余、置く所を爾支と曰い、副を洩溪觚・柄渠觚と曰う。其の国王は皆女王に属す。女王の南、又た狗奴国有り、女男子を王と為す。其の官を拘右智卑狗と曰い、女王に属さず。帯方より女国まで万二千余里。其の俗、男子は皆点にして文(ぶん)あり。其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う。昔、夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪・文身して蛟龍の吾(われ)を避く。今の倭人も亦た文身して水害を厭うなり。
【3】暦記事(三国志裴松之注引)
其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀
『三国志』巻30 魏志 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条 裴松之注
其の俗、正歳・四節を知らず、ただ春耕・秋収を計(しる)して年紀と為す。
【4】侏儒国記事(法苑珠林引)
倭南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千餘里
叢書『四庫全書』内の『法苑珠林』 巻8
倭の南に侏儒国有り。其の人は長(たけ)三四尺、女王国を去ること四千余里。
【5】骨卜記事(北戸録引)
倭国大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶也
『北戸録』 卷2 鶏卵卜
倭国は大事あれば輒(すなわ)ち骨を灼きて以て卜い、先ずは中州の亀を視て坼(た)くるを以て吉凶を占うがごとくなり。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 魚豢 | ぎょかん | 3世紀後半の学者。 魏略・典略を著した。 生没年不詳。 |
| 拘耶韓国 | くやかんこく | 狗邪韓国(魏志)に同じ。 朝鮮半島南端の港。 |
| 卑拘・卑奴 | ひく・ひな | 対馬国の官職名。 魏志の「卑狗・卑奴母離」と異なる表記。 |
| 爾支・洩溪觚・柄渠觚 | にき・いけこ・へくこ | 伊都国の官名。 魏志の「爾支・洩觚・柄渠觚」とほぼ同一。 |
| 太伯之後 | たいはくのあと | 周の文王の伯父・太伯(呉の祖)の後裔。 倭人の自称。 |
| 夏后少康之子 | かのしょうこうのし | 会稽に封じられた無余(むよ)。 断髪文身の起源伝説。 |
| 灼骨 | しゃっこつ | 骨を焼いて占う。 後漢書・魏志の「灼骨以卜」と同一の習俗。 |
論点
📌 事実として確認できること
- 魏略は3世紀に成立した独立した史料であり、魏志と並ぶ一次資料的地位を持つ
- 伊都国の戸数を「一万余」と記す(魏志は「千余戸」と記す——重要な相違点)
- 対馬国の官名を「卑拘・卑奴」と記す(魏志の「卑狗・卑奴母離」と異なる)
- 「太伯之後」の自称を記す(晋書・梁書・北史にも同様の記述が引き継がれる)
- 狗奴国の王の官名「拘右智卑狗(こうちひく)」を記す(魏志の「狗古智卑狗」と微妙に異なる)
💬 解釈が分かれること
- 『翰苑』の誤写とテキストの取り扱い
-
現存する最古の写本(太宰府天満宮本)には筆写時の誤字・脱字が多く見られる。
例えば拘耶韓国までの距離を「七十余里(正しくは七千)」、狗奴国の王を「女男子(正しくは男王など)」、蛟龍の害を「蛟龍の吾」とするなどである。
本記事の原文は学術的観点から写本のまま(原文ママ)としているが、歴史資料として読む際は他史料と比較した校訂が必要となる。 - 伊都国の戸数「一万余戸」と魏志の「千余戸」の相違
-
魏略は「万余」、魏志は「千余」と記す。
どちらが正しいかは未確定で、写本上の誤記(万→千)か、あるいは魏志の情報源が異なるとも解釈される。
この差は伊都国の規模評価に大きく影響する。あわせて読みたい
魏志倭人伝【序文・道程記事】原文と現代語訳 魏志倭人伝(三国志巻30)の序文・道程記事の原文・書き下し文・現代語訳。倭国の概要・帯方郡から邪馬壹国への道程・対馬・壱岐・末盧・伊都・奴・不弥・投馬・邪馬壹の各国の官職名と戸数を収録。 - 魏略と魏志の先行・並行関係
-
陳寿が魏志を著す際に魏略を参照したか、あるいは両者が共通の別資料を参照したかについては議論がある。
いくつかの記述は魏略が魏志より詳しく(伊都国戸数、官名)、別の記述は魏志が詳しい(卑弥呼の外交記事)。 - 「東南五百里到伊都国」の表記
-
翰苑所引魏略の「東南五百里」は末盧国からの陸路。
魏志も「東南陸行五百里」と記す。
道程の解釈において末盧国→伊都国が「東南五百里」である点は両者で一致している。あわせて読みたい
翰苑とは? 唐の張楚金が665年頃に著した類書『翰苑』の解説。巻30(蕃夷部)のみが太宰府天満宮に国宝として現存し、散逸した『魏略』の倭人条を引用する唯一に近い史料として邪馬台国研究で重要視される。
🔍 未解決の仮説・問い
- 魏略の原書が完全な形で存在した場合、どれほどの情報量があったか。現存逸文は断片的であり、翰苑以外の引用書でも魏略の引用は少ない。
- 「戸万余」(伊都国)が正しければ、伊都国は3世紀の倭最大級の国ということになる。考古資料(糸島市の遺跡)との対応をどう考えるか。



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