邪馬台国への旅路で、伊都国(糸島)から東南に百里進んだ先に位置するのが「奴国(なこく)」です。
「二万余戸」という戸数は、道程に記された国々のなかでも最大級の規模であり、巨大な人口と経済力を抱える大国であったことがうかがえます。
また、魏志倭人伝が描く3世紀(邪馬台国の時代)だけでなく、それより約200年前の1世紀の中国史書『後漢書』にも登場し、皇帝から金印を授かった国としても超有名な奴国について、史料と考古学の双方からその姿を整理します。
- 比定地は「福岡平野」でほぼ確定
「奴(ナ)」という音が「那の津」や「那珂(ナカ)川」という地名に残っていることや、圧倒的な遺跡の数から、現在の福岡市〜春日市周辺であることで学界の意見が一致している。 - 金印をもらった「かつてのトップ」
1世紀には中国の皇帝から直接「漢委奴国王」の金印をもらうほど、倭国を代表する最強の国だった。 - 圧倒的な人口と青銅器のハイテク集団
3世紀の邪馬台国時代には外交の主導権を伊都国に譲っていたが、それでも「二万余戸」という飛び抜けた人口と、須玖岡本遺跡に見られる国内最大の青銅器工場を持つ大国として君臨していた。
「奴国」の表記と金印の存在
奴国の表記は史料間でほぼ共通していますが、『後漢書』にのみ別の文脈で重要な記録が残されています。
クルエイチ当サイトでは、便宜上「奴国」という新字体を中心に使用して解説を進めます。
後漢書と「漢委奴国王」金印
『後漢書』の東夷伝には、西暦57年(建武中元二年)の出来事として次のように記されています。
建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
(建武中元二年、倭奴国が貢ぎ物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。倭国の極南の境界である。光武帝は印綬を賜った。)
この時、後漢の光武帝から授けられた印綬こそが、江戸時代の天明4年(1784年)に博多湾の志賀島で発見された国宝の金印「漢委奴国王」であるとするのが学界の定説です。
金印の読み方は「かんのわのなのこくおう」が一般的ですが、「漢に委(したが)う奴の国王」など複数の読み方も提案されています。
魏志倭人伝に記された奴国の姿
時代が下り、3世紀の『魏志倭人伝』では、奴国は次のように描かれています。
1. 行程と官名
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離
(東南、奴国に至ること百里。官は兕馬觚[じまこ]といい、副は卑奴母離[ひなもり]という。)
伊都国から東南へ百里と記されています。
「卑奴母離」という副官名は、対海国・一大国と全く同じ名称です。
2. 最大級の戸数(二万余戸)
有二万余戸
(二万余戸あり。)
奴国の戸数は「二万余戸」と記されており、旅程に登場する個別の国のなかで最も大きな規模です。
| 国名 | 戸数 |
|---|---|
| 対海国 | 千余戸 |
| 一大国 | 三千許家 |
| 末盧国 | 四千余戸 |
| 伊都国 | 千余戸(※万余戸の誤写説あり) |
| 奴国 | 二万余戸 |
| 不弥国 | 千余家 |
※これ以降に登場する投馬国(五万余戸)や邪馬台国(七万余戸)に次ぐ規模です。
歴史のダイナミズム(1世紀→3世紀の変化)
ここで注目すべきは、1世紀には金印をもらうほど倭国の中心だった奴国が、3世紀の卑弥呼の時代には、外交や諸国監視の特権(一大率)を手前の「伊都国」に奪われているという点です。
政治・外交のトップの座は降りたものの、福岡平野という広大で肥沃な土地を背景に、「二万余戸」という巨大な人口と経済力を維持し続けた、いわば「倭国最大の経済都市」としての奴国の姿が浮かび上がってきます。
考古学的情報(国内最大のハイテク工業地帯)
奴国の比定地とされる春日市・福岡市南区周辺は、弥生時代の超重要遺跡が密集しており、考古学的に最も充実した証拠が集まるエリアです。
- 王都と青銅器コンビナート:須玖岡本(すぐおかもと)遺跡(福岡県春日市)
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弥生時代中期を代表する大規模遺跡で、国の史跡に指定されています。
最大の特徴は、ここが日本最大の青銅器工場地帯であったことです。
銅剣・銅矛の鋳型や多量の銅鏡が出土しており、高度な技術を持ったハイテク集団がいたことが分かっています。
王墓と推定される甕棺墓(かめかんぼ)からは前漢鏡を含む多数の副葬品が発見されました。 - 広大な居住区:那珂(なか)遺跡群(福岡市博多区)
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福岡平野の中心部に広がる大規模な集落遺跡で、現在も都市開発に伴って断続的に発掘調査が行われています。
ここには「二万余戸」の人口を支える広大な居住域が広がっていました。
結論(比定地)
奴国の比定地は、現在の福岡県福岡市〜春日市(福岡平野一帯)とする説で学界でもほぼ完全に一致しています。
「奴(ナ)」の音が「那の津」や「那珂川」などの地名に残っていること、志賀島での金印発見、そして須玖岡本遺跡という圧倒的な王都と工業力の痕跡が存在するためです。
九州説・畿内説の双方で合意が得られており、伊都国と並んでルート上の確実なアンカー(錨)となっています。
なお、奴国の比定地は福岡周辺とするのが圧倒的な定説ですが、魏志倭人伝に記された「距離(里数)や方位」をそのまま現代の地図に当てはめようとするアプローチの中には、対馬から海流に乗って日本海側(出雲や北陸地方など)へ向かったとするユニークなルート説も存在します。
定説がすべてではなく、多様な解釈が成り立つのが邪馬台国論争の奥深いところです。
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