『三国遺事(さんごくいじ)』巻1 紀異の「延烏郎 細烏女」条を収録する。新羅の男女が岩に乗って日本(倭国)へ渡り、王と王妃になったという神話的伝承であり、古代の渡来人や太陽信仰の伝播を考察する際の文化的史料として参照される。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 三国遺事(さんごくいじ) |
| 巻・章 | 巻1 紀異第一 延烏郎 細烏女 |
| 著者 | 一然(いちねん) |
| 成立年 | 1281年頃(高麗時代後期) |
| 分類 | 私撰歴史書・仏教説話集 |
| 底本 | ウィキソース(zh.wikisource.org) |

原文と現代語訳
第八阿達羅王即位四年丁酉東海濱有延烏郎細烏女夫婦而居
一日延烏歸海採藻忽有一岩(一云一魚)負歸日本
其國人見之曰此非常人也乃立為王
(按日本帝紀前後無新羅人為王者此乃邊邑小王非真王也)細烏怪夫不來歸海尋之見夫脱鞋亦上其岩岩亦負歸如前
『三国遺事』巻1 紀異第一 延烏郎 細烏女
其國人見之訝然獻於王夫婦相聚立為貴妃
是時新羅日月無光日者奏乎日月之精降在我國今去日本故致斯怪
王遣使求二人延烏曰我到此國天使然也今何歸乎雖然朕之妃有所織細綃可將此祭天乃賜其綃
使人來奏依其言而祭之然後日月明如舊
藏其綃於御庫為國寶名其庫曰貴妃庫祭天所名曰迎日縣又都祈野
第八(代)阿達羅(あだつら)王、即位四年丁酉(157年)、東海の浜に延烏郎(えんおろう)・細烏女(さいおじょ)、夫婦ありて居す。
一日、延烏、海に帰(ゆ)きて藻を採るに、忽ち一岩(一に云う、一魚)あり、負いて日本に帰(おもむ)く。
其の国人これを見て曰く「此れ常の人にあらず」と。乃ち立てて王と為す。
(按ずるに、日本帝紀に前後新羅人として王と為る者なし。此れ乃ち辺邑の小王にして真王にあらざるなり)
細烏、夫の来たらざるを怪しみ、海に帰きてこれを尋ぬるに、夫の脱鞋(だつあい)を見、また其の岩に上る。岩また負いて帰くこと前のごとし。
其の国人これを見て訝然(がぜん)とし、王に献ず。夫婦相い聚(あつ)まり、立てて貴妃と為す。
是の時、新羅の日月光なし。日者(ひじり)、奏してのたまわく「日月の精、我が国に降り在りしが、今日本に去る。故に斯の怪を致す」と。
王、使を遣わして二人を求む。延烏曰く「我が此の国に到りしは、天の然らしむるなり。今何ぞ帰らんや。然りと雖も朕の妃の織る所の細綃(さいしょう)あり。将にこれを以て天を祭るべし」と。乃ち其の綃を賜う。
使人来たりて奏し、其の言に依りてこれを祭る。然る後、日月明らかなること旧のごとし。
其の綃を御庫に蔵(おさ)めて国宝と為し、其の庫を名づけて貴妃庫と曰い、天を祭る所を名づけて迎日県(げいじつけん)と曰う。また都祈野(ときや)と曰う。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 一然 | いちねん | 1206〜1289年。高麗の僧侶。 『三国遺事』の編纂者。 |
| 阿達羅王 | あだつらおう | 新羅の第8代国王。在位154〜184年。 『三国史記』にて卑弥呼が使者を送った(173年)とされる王。 |
| 延烏郎 細烏女 | えんおろう さいおじょ | 名前の「烏」から、太陽の象徴である「八咫烏」と関連? |
| 按日本帝紀 | あんずるににほんていきに | 編者・一然による注記。 一然が日本の歴史書(概要?)をある程度知っていたことを示す。 |
| 日者 | ひじり | 占い師、天象を観測する者。 |
| 迎日県 | げいじつけん | 現在の韓国・慶尚北道浦項市(ポハン市)の迎日湾一帯とされる。 |

この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 新羅の東海岸から人々(延烏郎と細烏女)が海を渡って倭国(日本)へ移住したという伝承が存在した
- 移住した新羅人が倭国で「王」や「貴妃」として崇められたという記憶が語り継がれている
- 機織り(絹織物)の技術や、それを神聖な祭祀に用いる風習が日朝間で共有されていた
💬 解釈が分かれる箇所
- 「阿達羅王四年(157年)」という年代
-
この事件が起きたとされる阿達羅王の時代は、『三国史記』において「倭女王卑弥呼が使者を送ってきた(173年)」とされる時代と完全に一致します。
このため、延烏郎が「王」になった辺邑(九州北部など)と、卑弥呼の勢力拡大との間に何らかの関連を見出そうとする解釈があります。 - 太陽神話(天照大神)との関連
-
二人の名前に「烏(カラス)」が含まれること、二人が去ると新羅の太陽が光を失ったこと、そして妃の織った絹で祭祀を行うと光が戻ったことなど、日本の天照大神(アマテラス)の天岩戸神話と構造が非常に似ています。
新羅から日本へ渡った人々が、太陽信仰と機織りの技術をもたらした歴史的記憶の反映であるとする説が民俗学や神話学で有力です。 - 「日本」という表記
-
157年当時の国号は「倭」ですが、13世紀に書かれたこの書物では「日本」と表記されています(編者の一然が当時の呼称に書き換えたもの)。

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