三国史記【新羅本紀の倭関連記事】原文と現代語訳

高麗の金富軾編『三国史記』新羅本紀に記された倭関連記事を抜粋・翻訳。倭女王卑弥呼の新羅への使聘(189年)、3〜4世紀の倭の新羅侵攻・交聘・絶交記録など、朝鮮半島側から見た倭の動向を収める。

『三国史記』新羅本紀第2(2〜4世紀)に記録された、倭女王卑彌乎の来聘(173年)・倭の侵攻・絶交などの日朝関係記事を収録する。

目次

史料データ

項目内容
書名三国史記(さんごくしき)
巻・章第2 新羅本紀第2(阿達羅尼師今〜訖解尼師今)
著者金富軾(きんふしょく)
成立年1145年(高麗・仁宗23年)
分類朝鮮正史・紀伝体・断代史
底本ウィキソース(zh.wikisource.org)
参照URLhttps://zh.wikisource.org/wiki/三國史記/卷02

原文と現代語訳(倭関連記事のみ抜粋)

阿達羅尼師今(在位154〜184年)代

五年春三月開竹嶺倭人來聘
二十年夏五月倭女王卑彌乎遣使來聘

『三国史記』第2 新羅本紀第2

五年〔158年〕春三月、竹嶺を開いた。倭人が来て聘問した。
二十年〔173年〕夏五月、倭の女王・卑彌乎(ひみこ)が使者を遣わして来聘した

伐休尼師今(在位184〜196年)代

十年春正月甲寅朔日有食之…六月倭人大饑來求食者千餘人

『三国史記』第2 新羅本紀第2

十年〔193年〕…六月、倭人が大いに飢え、食を求めて来た者が千余人。

奈解尼師今(在位196〜230年)代

十三年春二月…夏四月倭人犯境遣伊伐飡利音將兵拒之

『三国史記』第2 新羅本紀第2

十三年〔208年〕…夏四月、倭人が境を犯したので、伊伐飡(いほつかん)の利音を将として兵を率いてこれを拒んだ。

助賁尼師今(在位230〜247年)代

三年夏四月倭人猝至圍金城王親出戰賊潰走遣輕騎追擊之殺獲一千餘級
四年夏四月大風飛屋瓦五月倭兵寇東邊
秋七月伊飡于老與倭人戰沙道乘風縱火焚舟賊赴水死盡

『三国史記』第2 新羅本紀第2

三年〔232年〕夏四月、倭人が突然来て金城を囲んだ。王が自ら出て戦い、賊は崩れて逃げ、軽騎を遣わして追撃し、千余級を殺獲した。

四年〔233年〕夏四月、大風で屋根瓦が飛んだ。五月、倭兵が東辺を寇した。秋七月、伊飡(いかん)の于老(うろ)が倭人と沙道で戦い、風に乗って火を放って船を焼くと、賊はみな水に飛び込んで死んだ。

沾解尼師今(在位247〜261年)代

三年夏四月倭人殺舒弗邯于老

『三国史記』第2 新羅本紀第2

三年〔249年〕夏四月、倭人が舒弗邯(じょほつかん)の于老を殺した。

儒禮尼師今(在位284〜298年)代

四年夏四月倭人襲一禮部縱火燒之虜人一千而去
六年夏五月聞倭兵至理舟楫繕甲兵
九年夏六月倭兵攻陷沙道城命一吉飡大谷領兵救完之
十一年夏倭兵來攻長峯城不克
十二年春王謂臣下曰:「倭人屢犯我城邑百姓不得安居吾欲與百濟謀一時浮海入擊其國」
舒弗邯弘権対曰:「吾人不習水戦冒険遠征恐有不測之危」王曰:「善」

『三国史記』第2 新羅本紀第2

四年〔287年〕夏四月、倭人が一礼部を襲い、火を放って焼き、人千人を虜にして去った。

六年〔289年〕夏五月、倭兵が来ると聞き、舟楫を整えて甲兵を繕った。

九年〔292年〕夏六月、倭兵が沙道城を攻め落としたので、一吉飡(いつかん)の大谷に命じて兵を率いて救い完全にした。

十一年〔294年〕夏、倭兵が来て長峯城を攻めたが落とせなかった。

十二年〔295年〕春、王が臣下に言った。「倭人がたびたびわが城邑を犯し、百姓が安居できない。百済と謀って一斉に海に浮かんでその国を攻め入りたいがいかが」。舒弗邯の弘権が「吾が人は水戦に習わず、危険な遠征は不測の事態が恐ろしい」と答えた。王は「よし(やめよう)」と言った。

基臨尼師今(在位298〜310年)代

三年春正月與倭國交聘

『三国史記』第2 新羅本紀第2

三年〔300年〕春正月、倭国と交聘した(使者を交換した)。

訖解尼師今(在位310〜356年)代

三年春三月倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之
三十五年春二月倭國遣使請婚辭以女旣出嫁
三十六年春正月拜康世爲伊伐飡二月倭王移書絶交
三十七年倭兵猝至風島抄掠邊戶又進圍金城急攻
王欲出兵相戰伊伐飡康世曰:「賊遠至其鋒不可当不若緩之待其師老」
王然之閉門不出賊食盡將退命康世率勁騎追擊走之

『三国史記』第2 新羅本紀第2

三年〔312年〕春三月、倭国王が使者を遣わして子(息子)のために婚姻を求め、阿飡(あかん)の急利の娘を送った。

三十五年〔344年〕春二月、倭国が使者を遣わして婚を請うたが、女(むすめ)はすでに嫁いでいるとして辞退した。

三十六年〔345年〕春正月、康世を伊伐飡に拝した。二月、倭王が書を送って国交を断絶した

三十七年〔346年〕、倭兵が突然来て風島(プンド)を掠め、また進んで金城を囲んで急攻した。王が出兵して戦おうとしたが、伊伐飡の康世が「賊は遠く来て、その鋒は防ぎがたい。緩めて師が疲弊するのを待つ方がよい」と言った。王はその通りにして門を閉じて出なかった。賊は食糧が尽きて退こうとした。康世に命じて精鋭の騎兵を率いて追撃させ、これを走らせた。

語注

語句読み解説
卑彌乎ひみこ卑弥呼の三国史記における表記。
「乎(コ)」の字を使う。
来聘らいへい使者を送って礼物を贈ること。
正式な外交往来。
伊伐飡いほつかん新羅の官位制最高位(上から一番目)、17等官の一等。
金城きんじょう新羅の都・徐羅伐(慶州)の城の名称。
于老うろ新羅の将軍。沙道での倭との戦いで有名。
後に倭人に殺された。
交聘こうへい双方が使者を遣わして礼を交わすこと。
正常な外交関係。
移書絶交いしょぜっこう書を送って国交を断絶すること。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 「阿達羅尼師今二十年(173年)、倭女王卑彌乎が使を遣わして来聘した」という記録がある
  • 3〜4世紀に倭が新羅に対して侵攻・婚姻関係・絶交など多様な外交関係を持っていた
  • 倭が新羅の都・金城を包囲する大規模侵攻(232年・346年)が記録されている
  • 349〜345年に倭と新羅の間で婚姻交渉があり、345年に倭が絶交を通告したことが記される

💬 解釈が分かれる箇所

「阿達羅尼師今二十年(173年)」の「倭女王卑彌乎」

三国史記の紀年は修正が必要とされる場合が多い。
阿達羅尼師今二十年を伝統的な三国史記の紀年通りに173年とすると、魏志倭人伝で卑弥呼が王に共立された「桓靈間(2世紀後半)」と近い時期になる。
ただし三国史記の新羅前期の紀年には過去に遡らせる操作(延章問題)があるため、実際の年代は3世紀前半とする解釈もある。

「倭女王卑彌乎遣使来聘」の信憑性

金富軾が12世紀に記した記録であり、どのような原史料に基づくかは不明。
新羅の古記録(古記)を参照したとされるが、その内容の正確さについては議論がある。
「卑彌乎」という固有名詞が魏志の「卑弥呼」と対応することは確認できる。

3〜4世紀の倭の新羅侵攻

三国史記の侵攻記録は、日本書紀の神功皇后記事(新羅征討)と時代的に重なる。
これらの記録の相互関係(同一事件の異なる記録か、別個の事件か)については議論が続く。

345年の倭王の「絶交書」

倭国王が書を送って正式に絶交を宣言した記録は他の史書に見られない。
倭側に文字による外交文書の能力があったことを示すとも解釈できる。

🔍 未解決の仮説・問い

  • 三国史記の「卑彌乎」と魏志の「卑弥呼」が同一人物であれば、卑弥呼が中国(魏)だけでなく朝鮮半島の新羅へも使節を送っていたことになる。外交範囲の広さを示すが、173年という年代問題を解決しなければ確定できない。
  • 230〜260年代の倭の新羅への連続的侵攻は、魏志が記す「倭国大乱」(桓靈間〜卑弥呼共立)以後の倭の政治状況と関連があるか。
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