倭人の入れ墨文化(黥面文身)とは?古代史料の比較から読み解く顔に墨を入れた理由

魏志倭人伝などの古代中国史料には、倭人(日本人)が顔や体に入れ墨(黥面文身)を施す文化があったと記されています。当時の中国では刑罰を意味した入れ墨を、なぜ倭人は進んで行っていたのか?魔除け(蛟竜の害)、身分表示、太伯の末裔というアイデンティティから紐解きます。

古代中国の複数の歴史書や絵画史料には、古代日本(倭国)の人々が顔や体に入れ墨をする文化を持っていたことがはっきりと記録されています。

当時の中国の常識からすれば、顔に墨を入れることは野蛮な刑罰を意味していましたが、倭人たちは誰もが当たり前のようにそれを行っていました。
非常に多くの史料に残されたこの「入れ墨文化」について、史料ごとの細かな記述の違いを比較検証し、なぜ倭人は入れ墨をしたのかという理由を紐解きます。

【この記事のポイント】
  • 豊富な史料が伝える事実
    『魏志倭人伝』や『後漢書』だけでなく、『職貢図』などの絵画史料、『晋書』『北史』など多数の文献が倭人の入れ墨を記録している。
  • 史料ごとの表記の違い
    「黥面文身」をはじめ、「點面」や「男女皆」など、時代や史料によって記述に微妙な差異(誤写や解釈の変化)が見られる。
  • 入れ墨をした3つの理由
    ①水中の魔物(蛟竜)から身を守る魔除け
    ②身分(尊卑)の違いを表すマーク
    ③中国文明(太伯)の末裔であるというルーツのアピール
    という複合的な意味があった。
目次

史料が伝える「入れ墨」の記録と比較

顔に入墨をした土偶
顔に入墨をした土偶

倭人の入れ墨に関する記述は、史料によって微妙に内容や使われる漢字が異なっています。
どの記述が最も正確なのかを検討するため、まずは前提となる言葉の意味と、各史料の一覧を確認しましょう。

💡 古代の入れ墨に関する用語
  • 黥(げい):入れ墨のこと。特に、古代中国では罪人の顔に墨を入れる刑罰を指した。
  • 點(てん):「点」の旧字。小さな印、濁点や句読点という意味。
  • 文身(ぶんしん):針や刃物などで体に傷をつけ、墨汁や朱などの色素を塗りこんで文字や絵を描きこむこと。入れ墨というより彫り物に近いニュアンス。

史料の比較一覧表

史料名史料成立年代記述内容の特徴
魏志倭人伝(紹興本)12世紀写本(原本は3世紀末)黥面文身
魏志倭人伝(紹煕本)12世紀写本黥面身(※「文」の誤記とされる)
翰苑(魏略引用)7世紀以前而文(※誤写・脱字とされる)
後漢書5世紀前半黥面文身
蕭繹職貢図6世紀前半(破れ)面文身
諸番職貢圖巻17〜18世紀黥面文身
梁書7世紀前半文身(※「黥面」の記載なし)
晋書7世紀中頃黥面文身
隋書7世紀中頃面文身
北史7世紀中頃男女皆黥臂點面文身
通典9世紀初頭黥面文身(※男女近倭亦文身の記述も)

このように、古代の日本では、身分・年齢問わず誰もが顔や体に入れ墨(模様)を描いていたことが、極めて多くの史料によって裏付けられています。

各史料の興味深い「差異」と解釈

同じ入れ墨を記録していても、史料ごとに興味深い差異があります。

1. 文字の誤写・脱字問題

『魏志倭人伝』の紹煕本では「黥面丈身」となっていますが、これは「文」の誤記(タイポ)とするのが一般的です。
また、『翰苑』の「點而文」も、「黥」を「點」と、「面」を「而」と誤写し、「身」が脱落したものと考えられています。

2. 絵画史料(職貢図)の欠落
『蕭繹職貢図』
『蕭繹職貢図』

外国の使者の姿を描いた『蕭繹職貢図』の宋人模本には、解説文に重要な破れがあり「〇面文身」と読めなくなっています。
しかし、別の『諸番職貢圖巻』の方には欠落がなく、はっきりと「黥面文身」という文字が確認できます。

『諸番職貢圖巻』専修大学東アジア世界史研究センタ一年報第6号より(2012年3月)
『諸番職貢圖巻』専修大学東アジア世界史研究センタ一年報第6号より(2012年3月)
3. 「黥面」が消えた『梁書』

『梁書』では、「太伯の末裔で俗に皆文身している」と記されていますが、顔に墨を入れる「黥面」の文字が消えています。

4. 「男女」とする『北史』と『通典』

魏志や後漢書が「男子は大小と無く皆…」としているのに対し、『北史』は「男女皆黥臂點面文身」と女性の入れ墨にも言及しています。
また『通典』には「男女、倭に近きものは亦た文身す」とあり、倭の周辺文化圏における入れ墨の広がりを示唆しています。(※これが物理的な距離の近さか、文化的な近さかは諸説あります)。

💡 現代にも残る四字熟語「断髪文身」

国語辞典などで調べると、現在でも「断髪文身(だんぱつぶんしん)」という四字熟語が記載されています。一般的には「野蛮な習慣」と説明されますが、歴史的には「古代中国で野蛮とされていた呉・越の一帯の風習」を指す言葉として成立したものです。

なぜ倭人は入れ墨をしたのか?(3つの理由)

それでは、倭人はなぜこれほど熱心に入れ墨を行っていたのでしょうか。
史書の記述を読み解くと、大きく3つの理由(側面)が浮かび上がってきます。

理由①:水中の魔物から身を守るため(実用・魔除け)

昔夏后少康之子封於會稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭水人好沈没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾

(昔、夏后少康の子が会稽に封じられた際、断髪文身して蛟竜の害を避けた。今、倭の水人は好んで潜水して魚蛤を捕らえ、文身して大魚や水鳥を厭け[魔除け]、後には次第に装飾となった。)

『三国志』魏志倭人伝

古代中国には、水中に「蛟竜(こうりゅう)」という竜の幼生が棲んでおり、人に危害を加えるという伝説がありました。
中国の少康の子が入れ墨をして蛟竜を避けたように、海に潜って漁をする倭人たちも、魔物や大型のサメなどから身を守るための「呪術的なお守り(魔除け)」として体に模様を描き込んでいたとされています。

単に中国の風習を真似ただけで実用的意味はないとする見方もあります

理由②:身分や所属を示すため(社会的記号)

以其文左右大小別尊卑之差

(その文の左右・大小を以て尊卑の差を別つ。)

『後漢書』東夷列伝 倭条(※古事類苑にも引用あり)

現代のパスポートや制服のように、入れ墨の模様や位置、大きさを見れば「どこの国の出身か」「どのくらいの身分の人物か」が一目でわかる社会的記号(ID)として機能していました。

理由③:「太伯の末裔」というアイデンティティ

聞其舊語 自謂太伯之後(中略)今倭人亦文身

(その旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う。[中略]今、倭人も亦た文身す。)

『翰苑』巻30(魏略からの引用)

古代中国の王族である「太伯(たいはく)」は、周王朝の王位を弟に譲るために江南地方(呉)へ移り住み、現地の風習に従って「断髪・文身」を行ったと『史記』などに伝えられています。

この入れ墨という文化的共通点から、倭人が「自らを呉の太伯の子孫」と称した背景には、自身の起源を中国文明に結びつけ、大国と対等に渡り合おうとするアイデンティティや外交的意図があったと推測されています。

まとめ

複数の中国史料が一致して伝える倭人の「黥面文身」は、3世紀の倭国に確実に存在した文化慣習でした。
史料間の表記の差異(點而文・點面文身など)は、後代の書写過程での誤写や脱字が主な原因とされていますが、すべての史料が倭人の入れ墨文化そのものは肯定しています。

入れ墨の意味については、以下の三つの側面が史料から読み取れます。

  1. 蛟竜の害を避けるための呪術的・実用的な起源
  2. 身分・尊卑を示す社会的記号としての機能
  3. 太伯の子孫という自己認識と結びついた文化的アイデンティティ

魏志倭人伝が「後には次第に装飾となった」と記しているように、入れ墨の意味は時代とともに変化していった可能性があり、3世紀の時点ではこれらの複数の意味を同時に担っていたと考えるのが自然です。

参考文献・注釈

一次史料

史料書誌情報
『三国志』魏書 倭人伝陳寿撰。280〜297年成立。
「黥面文身」や水人の漁労について記録。
『翰苑』(魏略)張楚金撰。7世紀後半成立。
「點而文」や太伯伝説の引用を含む。
『後漢書』東夷列伝范曄撰。432〜445年成立。
身分の差を文身で区別した旨を記録。
『梁書』列伝姚思廉撰。636年成立。
『晋書』四夷伝房玄齢等撰。648年成立。
『隋書』東夷列伝魏徴等撰。656年成立。
『北史』四夷伝李延寿撰。659年成立。
『通典』東夷上杜佑撰。801年成立。
『古事類苑』神宮司廳撰。後漢書を引用する箇所を参照。

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