梁職貢図(職貢図/貢職図)とは?

南朝梁の蕭繹(後の元帝)が539年頃に制作した職貢図の解説。倭国使の図像と説明文を収録した現存唯一に近い視覚的倭人資料で、「木綿帖首・衣横幅無縫」など倭人の服飾を描写する。原本は失われ、北宋の摹本などが現存。

『梁職貢図(りょうしょくこうず)』は、南朝梁の皇子であった蕭繹(しょうえき、後の元帝)が539年頃に制作したとされる職貢図(朝貢図)です。
文字ばかりの中国史書の中にあって、倭国(日本)の使者の姿を「絵」で残し、さらに説明文(題記)をセットで収録した現存唯一に近い視覚的資料として極めて高い価値を持ちます。

原本は失われており、後世に描かれた複数の摹本(模写・コピー)を通じてのみ内容を知ることができるという、非常に複雑な背景を持つ史料です。

【この記事のポイント】
  • 倭人のリアルなビジュアル
    裸足で独特の布を被った6世紀の倭国使の姿が絵で残されており、『魏志倭人伝』の記述などと比較できる。
  • 失われた原本と複数のコピー
    原本は現存せず、「図だけのもの」「文字が剥がれたもの」「文字が詳細なもの」など、複数の写しを組み合わせて研究されている。
  • 「新羅は倭に属す」の記述
    一部の版本には当時の新羅が「韓または倭に属す」という記載があり、古代朝鮮半島と日本の政治関係を示す史料としても注目されている。
目次

職貢図(しょくこうず)とは

職貢図(貢職図とも呼ばれます)とは、古代中国王朝の皇帝に対して、周辺の異民族や国家が貢物を献上(進貢・職貢)にやってくる様子を、説明文とともに描いた絵図のことです。

中でも南朝梁の『梁職貢図』は、倭国の使節に関する絵が含まれているため、日本古代史の研究において特別に重視されています。

職貢図はあくまで「実際にやってきた使節を描いたもの」であるため、すべての周辺国を網羅しているわけではありません。例えば後述する閻立本版では、婆利・羅刹・林邑の三国の使節団のみが描かれています

著者:蕭繹について

蕭繹(508〜554年)は、南朝梁の武帝・蕭衍(しょうえん)の第七子で、のちに第四代皇帝(元帝)となる人物です。
文学や絵画に優れた教養人として知られ、彼が地方長官である荊州刺史(けいしゅうしし)を務めていた時代(520〜530年代)に、建康(首都)や荊州を訪れた外国使節の風貌を自ら調査し、この図を作成したと伝えられています。

複雑な版本(コピー)の系統と所蔵先

『梁職貢図』の信憑性を考える上での最大の問題は、原本が完全に失われており、現存するものがすべて後世の画家による摹本(写し)であるという点です。
倭国に関する記録も、版本によって「絵のみ」「絵と文があるが剥落」「文の内容が違う」など状態が大きく異なります。

主要な史料データ一覧

種類著者成立年所蔵先倭国の記述状態
原本蕭繹539年頃(散逸)
唐代版
(王会図)
閻立本650年頃台湾国立故宮博物院絵のみ(文なし)
南唐版
(顧徳謙摹本)
顧徳謙937〜975年台湾国立故宮博物院絵のみ(文なし)
北宋版
(蕭繹職貢図)
不明1077年頃中国国家博物館絵+文(ただし剥落あり
清代版
(諸番職貢圖巻)
張庚1685〜1760年『愛日吟廬書畫續録』等文あり(北宋版と内容が異なる)

各版本の詳細

王会図(閻立本版)
『王会図』の倭人
『王会図』の倭人

唐時代の画家・閻立本(えんりっぽん)が描いた職貢図で、台湾国立故宮博物院に所蔵されています。
倭国使の姿は描かれていますが、説明文が一切ないことが特徴です。

顧徳謙による模本
『顧徳謙による模本』の倭人
『顧徳謙による模本』の倭人

南唐時代の画家・顧徳謙が描いたもので、『五代南唐顧德謙摹梁元帝番客入朝圖 卷』として同じく台湾国立故宮博物院に保管されています。
こちらも図のみで文がありません。

蕭繹職貢図(北宋版)
『蕭繹職貢図』
『蕭繹職貢図』

北宋の熙寧年間(1068〜1077年頃)に模写された「宋人摹本残巻」で、中国国家博物館が所蔵しています。
現存する最古の「絵と文字」のセットですが、全体的に内容が欠落しており、特に倭国の説明文は表面が剥げていて不完全(判読不能な文字が多い)な状態です。

諸番職貢圖巻(清代・張庚版)
『諸番職貢圖巻』専修大学東アジア世界史研究センタ一年報第6号より(2012年3月)
『諸番職貢圖巻』専修大学東アジア世界史研究センタ一年報第6号より(2012年3月)

『愛日吟廬書畫續録』に収録された、張庚作成の職貢図です。
ここには北宋版で読めなくなっていた倭国の詳細な説明文(題記)が残されていますが、北宋版の残存テキストとは内容が一部異なっており、どちらが原本の姿を正しく伝えているかが研究上の論点となっています。

邪馬台国研究における位置づけ

『梁職貢図』が描かれたのは6世紀初頭(520〜530年代)であり、邪馬台国の時代(3世紀)からは約300年後の姿です。そのため、邪馬台国の所在地論争の直接的な証拠として使われることはありません。

しかし、6世紀の倭国の政治的位置づけや対外交渉の実態を示す史料として、邪馬台国政権からの「継続性・変化」を視覚的に論じる際の絶好の参照点となります。

魏志倭人伝との比較(ビジュアルの価値)

清代版などの題記には、「木綿帖首(頭に木綿の布を被る)」「衣横幅無縫(衣は横幅にして縫い目なし)」「好沈水捕魚蛤(水に潜って魚や蛤を捕るのを好む)」といった描写があります。
また、図像には裸足で独特の衣服を着た倭人の姿が描かれています。

これらは、『魏志倭人伝』に書かれた「倭人は文身(入れ墨)し、貫頭衣を着る」「水に沈んで魚蛤を捕らえる」といった3世紀の風俗記述と直接対比させることができる、貴重な文化史的データとして活用されています。

よくある質問(FAQ)

北宋版と清代版では、どちらを信用すべきですか?

どちらが蕭繹の原本に近いかは、現在も研究者の間で議論が続いており確定していません。北宋版(1077年頃)の方が時代は古いですが、文字の剥落が激しいため、後代の清代版(張庚版)の詳細なテキストを使って失われた情報を補い、比較・検証する手法が取られています。

梁書との関係はどうなっていますか?

『梁職貢図』の説明文(題記)が、正史である『梁書』(629年成立)の倭条を書くための「原史料(元ネタ)」の一つであった可能性が指摘されています。梁書の記述と職貢図の題記は内容的に重なる部分が多く、職貢図のテキストを参照して梁書の編纂者が記述を膨らませたとする説が有力です。

「斯羅国屬韓或屬倭」という記述の意味は?

清代版などの題記にある「斯羅国(新羅)は本は東夷の小国で、あるいは韓に属し、あるいは倭に属す」という記述です。これは5〜6世紀の朝鮮半島と倭の政治関係を示す注目すべき記録であり、『日本書紀』の任那・新羅関係記事などと合わせて、古代の倭が朝鮮半島南部に何らかの政治的影響力を持っていたことを示す証拠の一つとして解釈されています。

まとめ

『梁職貢図』は南朝梁の皇子・蕭繹(のちの元帝)が539年頃に制作した職貢図で、倭国使のリアルな姿(絵)と説明文を収録した貴重な史料です。
原本は失われており、台湾国立故宮博物院や中国国家博物館に所蔵されている様々な摹本(写し)をつなぎ合わせて研究されています。

文字が剥落した北宋版の欠点を、清代の「諸番職貢図巻」の詳細なテキストで補うなど、史料の取り扱いには高度な検証が求められます。
しかし、6世紀の倭国使の外見を視覚的に伝える数少ない史料として、『魏志倭人伝』の記述との比較や、当時の東アジア情勢(新羅との関係など)を解き明かすための鍵として、多くの研究者に重宝されています。

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