『通典』巻185「邊防・東夷・倭」を収録する。「其王理邪馬臺國〈或云邪摩堆〉」「倭一名日本」の記述を含む後漢〜唐代の倭の通史である。
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 通典(つてん) |
| 巻・章 | 巻185 邊防第1 東夷上 倭 |
| 著者 | 杜佑(とゆう) |
| 成立年 | 801年(唐・貞元17年) |
| 分類 | 政書・典制史 |
| 底本 | ウィキソース(zh.wikisource.org) |
| 参照URL | https://zh.wikisource.org/wiki/通典/卷185 |

原文
卷第185 邊防第1 邊防序
又歷代史、倭國一名日本、在中國直東;
扶桑國復在倭國之東、約去中國三萬里、蓋近於日出處。(…中略…)
第一東夷上 – 序略朝鮮濊音穢馬韓辰韓弁辰百濟新羅倭夫餘蝦夷
卷第185 邊防第1 邊防序
卷第185 邊防第1 東夷上 序略
新羅又在百濟之東南、倭又在東南、倭、烏和反。
卷第185 邊防第1 東夷上 序略
隔越大海。夫餘在高麗之北、挹婁之南。
其倭及夫餘自後漢、百濟、新羅自魏、歷代並朝貢中國不絕。
卷第185 邊防第1 東夷上 馬韓条
馬韓在西、五十有四國、其北與樂浪、南與倭接。(…中略…)
卷第185 邊防第1 東夷上 馬韓条
弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。(…中略…)
其南界近倭、亦有文身者。
卷第185 邊防第1 東夷上 辰韓条
國出鐵、韓、濊、倭皆從取之。(…中略…)
卷第185 邊防第1 東夷上 辰韓条
男女近倭、亦文身、便步戰、兵杖與馬韓同。
卷第185 邊防第1 東夷上 弁辰条
是後倭韓遂屬帶方。
卷第185 邊防第1 東夷上 弁辰条
卷第185 邊防第1 東夷上 倭条
倭自後漢通焉在帶方東南大海中依山島爲居凡百餘國
光武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人
桓靈間倭國大亂更相攻伐歷年無主
有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼道能以妖惑眾
於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭出人
居處宮室樓觀城栅嚴設常有人持兵守衛魏明帝景初二年司馬宣王之平公孫氏也倭女王始遣大夫詣京都貢獻
魏以爲親魏倭王假金印紫綬
齊王正始中卑彌呼死立其宗女臺與爲王〈《魏略》云:「倭人自謂太伯之後」〉
其後復立男王並受中國爵命
晋武帝泰始初遣使重譯人貢宋武帝永初二年倭王讃修貢職至曾孫武順帝昇明二年遣使上表曰:
「封國偏遠作蕃於外自昔祖禰躬擐甲冑跋涉山川不遑寧處
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極
道遥百濟裝船理舫而句麗無道圖欲見吞虔劉不已每致稽滯
臣欲練甲理兵摧此强敵尅靖方難無替前功
竊自假開府儀同三司其餘咸各假授」
詔除武使持節安東大將軍倭王其王理邪馬臺國〈或云邪摩堆〉去遼東萬二千里在百濟新羅東南
其國界東西五月行南北三月行各至於海
大較在會稽閩川之東亦與朱崖儋耳相近其國土俗宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布
出白珠青玉其山出銅有丹土
氣温暖冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊有薑桂橘椒蘘荷不知以爲滋味
出黑雉有獸如牛名山鼠又有大虵吞此獸虵皮堅不可斫其上孔乍開乍閉時或有光射中之虵則死
其兵有矛楯木弓竹矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身自謂太伯之後衣皆横幅結束相連無縫
女人披髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭而著之並以丹朱塗其身如中國之用粉也
有城栅屋室父母兄弟異處唯會同男女無别飲食以手而用籩豆
俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考
國多女大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不婬不妒
又俗不盜竊少争訟其婚嫁不娶同姓
婦入夫家必先跨火乃與夫相見
其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食肉親賓就屍歌舞爲樂
有棺無槨封土作冢舉大事灼骨以卜用決吉凶其行來渡海詣中國常使一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰「持衰」
若在塗吉利則共顧其財物;若有疾病遭暴害以爲持衰不謹便共殺之官有十二等:一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信
員無定數有軍尼百二十人猶中國牧宰八十户置一伊尼翼如里長也;十伊尼翼屬一軍尼
其王以天爲兄以日爲弟尤信巫覡每至正月一日必射戲飲酒其餘節略與華同
樂有五絃琴笛好棊博握槊摴蒲之戲隋文帝開皇二十年倭王姓阿每名多利思比孤其國號「阿輩雞彌」華言天兒也遣使詣闕
其書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云帝覽之不悦謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者勿復以聞」
明年帝遣文林郎裴清使於倭國渡百濟東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷洲疑不能明也
又經十餘國達於海岸自竹斯以東皆附庸於倭
清將至王遣小德阿輩臺從數百人設儀仗鳴鼓角來迎
又遣大禮歌多毗從二百餘騎郊勞既至彼都其王與清相見設宴享以遣復令使者隨清來貢方物其國跣足以幅布蔽其前後椎髻無冠帶隋煬帝時始賜衣冠令以綵錦爲冠飾裳皆施音襈綴以金玉衣服之制頗同新羅
大唐貞觀五年遣新州刺史高仁表持節撫之浮海數月方至
仁表無綏遠之才與其王争禮不宣朝命而還由是遂絶又千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒東南行船行一年至裸國黑齒國使驛所傳極於此矣
倭一名日本自云國在日邊故以爲稱武太后長安二年遣其大臣朝臣真人貢方物
「朝臣真人」者猶中國地官尚書也頗讀經史解屬文首冠進德冠其頂有花分而四散
身服紫袍以帛爲腰帶容止温雅朝廷異之拜爲司膳員外郎〈天寶末衛尉少卿朝衡即其国人〉夫餘…(以下夫余・蝦夷条)
『通典』巻185 邊防第1 東夷上 倭
書き下し文
倭は後漢より焉(これ)に通じ、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて居を為す。凡そ百余国あり。
光武の中元二年、倭奴国貢を奉り朝賀し、使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。安帝の永初元年、倭国王・帥升等生口百六十人を献ず。
桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更(こもごも)相攻伐し、歴年主無し。女子有り名を卑彌呼と曰う。年長にして嫁がず、鬼道を事として能く妖を以て衆を惑わす。於是(ここに)共立して王と為す。侍婢千人、見る者少なし。ただ男子一人のみ飲食を給し辞を伝えて出入す。居処の宮室・楼観・城柵厳しく設け、常に人をして兵を持ちて守衛せしむ。
魏の明帝の景初二年、司馬宣王の公孫氏を平らぐるや、倭の女王始めて大夫を遣わして京都に詣り貢献す。魏は以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮す。斉王の正始の中、卑彌呼死し、その宗女・台與(たいよ)を立てて王と為す。〈魏略に云う「倭人は自ら太伯の後と謂う」〉。その後また男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋の武帝の泰始の初め、使を遣わして重訳して入貢す。
宋の武帝の永初二年、倭王・讃貢職を修む。曾孫の武に至り、順帝の昇明二年使を遣わして上表す。(表文略)。詔して武を使持節・安東大将軍・倭王に除す。
その王は邪馬台国を理(おさ)む〈或いは邪摩堆と云う〉。遼東より万二千里、百済・新羅の東南に在り。その国界は東西五月行、南北三月行にして各々海に至る。大かたは会稽・閩川の東に在り、また朱崖・儋耳と相近し。
隋の文帝の開皇二十年、倭王は姓を阿毎(あめ)、名を多利思比孤と称し、その国号を「阿輩雞彌」といい、漢語で天の子という。使を遣わして闕(みかど)に詣る。(日出処天子の国書。帝の対応・裴清の来日については隋書と同内容)
唐の貞観五年、新州刺史・高仁表を遣わして節を持して之を撫す。浮海数か月にしてようやく至る。仁表に遠方を綏撫する才無く、その王と礼を争い、朝命を宣べずして還る。由是(これより)遂に絶える。
倭はまた日本ともいう。自ら「国が日の辺に在るを以て称を為す」という。武太后の長安二年、その大臣・朝臣真人を遣わして方物を貢す。朝廷これを珍として、司膳員外郎に拝す。〈天宝の末、衛尉少卿・朝衡も即ちその国の人なり〉。
現代語訳
倭は後漢の時から〔中国と〕通じた。帯方の東南の大海の中、山島に依って居を構える。百余国がある。
光武帝の中元二年(57年)、倭奴国が奉貢・朝賀し、使人は自ら「大夫」と称した。倭国の極南界の国である。安帝の永初元年(107年)、倭国王の帥升らが生口百六十人を献上した。
桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ、互いに攻め合うこと数年、主がなかった。女子があり名を卑彌呼といい、年長で嫁がず、鬼道を事として衆を惑わすことができた。共立して王とした。侍婢千人があって、見える者は少なかった。ただ男子一人が飲食を給して言葉を伝えた。居処の宮室・楼観・城柵は厳しく設け、常に人が武器を持って守衛した。
魏の明帝の景初二年(238年)、司馬宣王(司馬懿)が公孫氏を平定したとき、倭の女王は始めて大夫を都に遣わして貢献した。魏は「親魏倭王」として金印紫綬を授けた。斉王の正始年間(240〜249年)に卑弥呼が死ぬと、宗女の台與(たいよ)を立てて王とした。〈魏略には「倭人は自ら太伯の後裔という」とある〉。その後また男王が立てられ、ともに中国の爵命を受けた。晋の武帝の泰始の初め(265〜266年)、使者を遣わして重訳して朝貢した。
宋の武帝の永初二年(421年)、倭王の讃が貢職を修めた。その曾孫の武は、順帝の昇明二年(478年)に使者を遣わして上表した。内容は:「封国は辺遠にして藩として外に在り…東征して毛人五十五国・西服して衆夷六十六国・海北九十五国を平定した…百済を経て船を整えたが、高句麗が道理なく〔倭を〕飲み込もうとした…兵を練り方難を靖めて、自ら開府儀同三司を仮授す」。詔して武を「使持節・安東大将軍・倭王」に除した。
その王は邪馬台国を治める〈或いは邪摩堆(やまずい)ともいう〉。遼東から一万二千里、百済・新羅の東南にある。国の境は東西五か月行、南北三か月行でそれぞれ海に至る。おおよそ会稽・閩川の東にあり、朱崖・儋耳とも相近い。
(産物・風俗・持衰・冠位・習俗については前掲各史書と同内容のため省略)
隋の文帝の開皇二十年(600年)、倭王は姓を阿毎(あめ)、名を多利思比孤、国号を「阿輩雞彌」、漢語で「天の子」という。使者を宮廷へ遣わした。その書には「日出処の天子、書を日没処の天子に致す、恙なきや」とあった。帝は悦ばず「蛮夷の書に無礼なものがあっても再び聞かせるな」と言った。翌年、帝は文林郎の裴清を倭へ遣わした…(隋書と同内容)
唐の貞観五年(631年)、新州刺史の高仁表を遣わして持節で慰撫させた。浮海数か月でようやく至ったが、高仁表には遠方を綏撫する才がなく、その王と礼を争い、朝命を宣べずに帰った。それ以来〔交流は〕絶えた。
(侏儒国・裸国・黒歯国については省略)
倭はまた日本ともいう。自ら「国が日〔太陽〕の辺にあるのでこう称する」という。武太后の長安二年(702年)に、その大臣の朝臣真人(あそみまひと)を遣わして方物を貢した。「朝臣真人」とは中国の地官尚書のようなものである。経史を読み、文を綴ることができる。頭に進徳冠を被り、頂から花が四方に分かれて散る形をしている。身に紫袍を着て、帛を腰帯とする。物腰は温雅で、朝廷で珍しがられ、司膳員外郎に拝された〈天宝の末期にいた衛尉少卿・朝衡(ちょうこう)もすなわちその国の人である〉。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 杜佑 | とゆう | 唐の政治家・歴史家(735〜812年)。 宰相を務め、801年に通典を完成。 |
| 邪馬臺國 | やまたいこく | 通典は「或云邪摩堆」と注する。 「邪摩堆=ヤマト」を示す北史の比定を継承。 |
| 台與 | たいよ | 「台与(たいよ)」の通典表記。 魏志「壹与」・梁書「台与」に対応。 一部写本で「臺輿」とあるのは誤写か。 |
| 長安二年 | 702年 | 武則天(武太后)の年号。 この年の遣唐使派遣は日本書紀に記録あり。 |
| 朝臣真人 | あそみまひと | 粟田真人(あわたのまひと)を指すとされる。 702年の遣唐使大使。 |
| 進徳冠 | しんとくかん | 冠の形状の描写。 702年当時の遣唐使の服装を示す具体的記録。 |
| 朝衡 | ちょうこう | 717年に入唐した阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の中国名。 一般的には「晁衡」とも表記される。 |
| 高仁表 | こうじんひょう | 貞観五年(631年)に倭を訪れた唐使。 礼の問題で和睦できず帰国。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 「其王理邪馬臺國〈或云邪摩堆〉」という比定と注が記されている
- 「倭一名日本、自云国在日辺故以為称」という「日本」国号の由来説明が残る
- 702年の遣唐使(粟田真人)の服装・素養・朝廷での評価が具体的に記述されている
- 魏志の「景初二年」を採用している(梁書・北史などの「景初三年」と異なる)

💬 解釈が分かれる箇所
- 「邪馬台国〈或云邪摩堆〉」の注の意味
-
通典は正文で「邪馬台国」を用いつつ、注で「邪摩堆(やまずい)ともいう」と補足する。
この注が「邪馬台国=大和(畿内)」の比定を示すと解釈する説と、単に別表記を記録したに過ぎないとする説がある。 - 「台與」の読み
-
通典は「台與」と書く。魏志は「壹与」、梁書・北史は「臺與」と書く。
「台與」「臺與」はいずれも「タイヨ」と読める。
「壹」か「臺」かの差に基づく「イヨ」説と「トヨ」説がある。 - 「武太后長安二年」の遣使
-
702年の粟田真人の入唐記録は日本書紀と一致する。
この年「日本」国号の使用が中国に正式に伝わったともされ、通典の「倭一名日本」記述はこれを反映している可能性がある。
🔍 仮説段階(要注意)
- 「倭一名日本、自云国在日辺故以為称」という説明は、702年以降に倭側が提供した説明を記録したものか、それとも通典編者・杜佑自身の理解か。
- 「貞観五年(631年)の高仁表来日」は日本側の史料にどの程度対応するか。日本書紀の記録と比較する必要がある。

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