南史【倭国伝】原文と現代語訳

南史巻79列伝第69「倭国伝」の原文と現代語訳。宋書・梁書の倭の五王記事を補完し、武の上表文・南斉・梁の爵号授与までを包括的に収める。

『南史』巻79「夷貊下・倭国」を収録する。宋・斉・梁を通じた倭の五王の外交記録と武の上表文全文を含む。

目次

史料データ

項目内容
書名南史(なんし)
巻・章巻79 列伝第69 夷貊下
著者李延寿(りえんじゅ)
成立年644年頃
分類中国正史・二十四史・紀伝体・通史(南朝四史の統合)
底本ウィキソース(zh.wikisource.org)
参照URLhttps://zh.wikisource.org/wiki/南史/卷79

原文

【概観・産物・風俗】

倭國其先所出及所在事詳《北史》
其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮
人種禾・稻・紵・麻蠶桑織績有姜・桂・橘・椒・蘇
出黑雉・真珠・青玉有獸如牛名山鼠又有大蛇吞此獸蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射中而蛇則死矣
物產略與儋耳・朱崖同地氣溫暖風俗不淫男女皆露髫
富貴者以錦繡雜采為帽似中國胡公頭食飲用籩豆其死有棺無槨封土作塚
人性皆嗜酒俗不知正歲多壽考或至八九十或至百歲
其俗女多男少貴者至四五妻賤者猶至兩三妻婦人不媱妒無盜竊少諍訟
若犯法輕者沒其妻子重則滅其宗族

『南史』巻79 列伝第69 夷貊下

【倭の五王記事(宋〜梁)】

晋安帝時有倭王贊遣使朝貢
及宋武帝永初二年詔曰:「倭贊遠誠宜甄可賜除授」
文帝元嘉二年贊又遣司馬曹達奉表獻方物
贊死弟珍立遣使貢獻自稱使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王表求除正
詔除安東將軍・倭國王
珍又求除正倭洧等十三人平西・征虜・冠軍・輔國將軍等號詔並聽之

二十年倭國王濟遣使奉獻復以為安東將軍・倭國王
二十八年加使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故;並除所上二十三人職

濟死世子興遣使貢獻孝武大明六年詔授興安東將軍・倭國王
興死弟武立自稱使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王
順帝昇明二年遣使上表言:
「自昔祖禰躬擐甲胄跋涉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服眾夷六十六國陵平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆於歲道徑百濟裝飾船舫而句麗無道圖欲見吞臣亡考濟方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣今欲練兵申父兄之志竊自假開府儀同三司其餘咸各假授以勸忠節」
詔除武使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭王

齊建元中除武持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・鎮東大將軍
梁武帝即位進武號征東大將軍

『南史』巻79 列伝第69 夷貊下

【周辺の異民族・島国】

其南有侏儒國人長四尺
又南有黑齒國・裸國去倭四千餘里船行可一年至
又西南萬里有海人身黑眼白裸而醜其肉美行者或射而食之

文身國在倭東北七千餘里人體有文如獸其額上有三文文直者貴文小者賤
土俗歡樂物豐而賤行客不齎糧有屋宇無城郭
國王所居飾以金銀珍麗繞屋為塹廣一丈實以水銀雨則流于水銀之上
市用珍寶犯輕罪者則鞭杖犯死罪則置猛獸食之有枉則獸避而不食經宿則赦之

大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異

『南史』巻79 列伝第69 夷貊下

書き下し文

【概観・産物・風俗】

倭国、其の先の出でし所及び所在の事は、「北史」に詳らかなり。
其の官には伊支馬有り、次を彌馬獲支と曰い、次を奴往鞮と曰う。
人は禾・稻・紵・麻を種え、蚕桑・織績す。姜・桂・橘・椒・蘇有り。黒雉・真珠・青玉を出だす。牛のごとき獣有りて名を山鼠と曰う。また大蛇有りてこの獣を呑む。蛇の皮は堅くて斫ること能わず、其の上に孔有りて乍ち開き乍ち閉じ、時に或いは光有りて中に射し、而して蛇すなわち死す。
物産はほぼ儋耳・朱崖と同じ。地気は温暖にして、風俗は淫せず。男女ともに髻を露わにす。
富貴者は錦繍の雑采を以て帽を為し、中国の胡公頭に似る。食飲には籩豆を用い、其の死には棺有りて槨無く、土を封じて塚を作る。
人の性はみな酒を嗜み、俗は正歳を知らず。寿を考うる者多く、或いは八九十に至り、或いは百歳に至る者もあり。
其の俗、女多く男少なし。貴き者は四五妻に至り、賤しき者は猶お二三妻に至る。婦人は婬妒せず。盗竊無く、諍訟少なし。
若し法を犯さば、軽ければ其の妻子を没し、重ければ其の宗族を滅す。

【倭の五王記事(宋〜梁)】

晋の安帝の時、倭王・贊有りて使を遣わして朝貢す。
宋の武帝の永初二年〔421年〕、詔して曰く「倭の贊の遠誠は甄(あき)らかにすべし、除授を賜うべし」と。
文帝の元嘉二年〔425年〕、贊また司馬の曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。
贊死して弟の珍立ち、使を遣わして貢献し、自ら「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称し、除正を求める表を上る。詔して「安東将軍・倭国王」に除す。
珍また倭洧等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍等の号に除正することを求め、詔してともにこれを許す。

〔元嘉〕二十年〔443年〕、倭国王の濟が使を遣わして奉献す。復た以て「安東将軍・倭国王」と為す。
二十八年〔451年〕、「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東将軍」を加えて故の如し。あわせて上奏せし二十三人の職を除す。

濟死して世子の興が使を遣わして貢献す。孝武帝の大明六年〔462年〕、詔して興を「安東将軍・倭国王」に授く。
興死して弟の武立ち、自ら「使持節・都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称す。
順帝の昇明二年〔478年〕、使を遣わして上表して言う:「自昔より祖禰、躬ら甲冑を擐(まと)いて山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六十六国を服し、海北九十五国を陵平す。王道融泰にして廓土遐畿、累葉朝宗して歳を愆たず。道は百済を径て船舫を装飾せんとせしに、句麗は道無くして見吞を図欲す。臣の亡考の濟、方に大挙せんとして奄に父兄を喪い、垂成の功、一簣を獲ずして竟わりぬ。今、兵を練りて父兄の志を申べんと欲し、竊かに自ら開府儀同三司を仮り、其の余もみなそれぞれ仮授して忠節を勧めんとす」と。
詔して武を「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除す。

斉の建元中〔479〜482年〕、武を「持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍」に除す。
梁の武帝即位して、武の号を「征東大将軍」に進む。

【周辺の異民族・島国】

其の南に侏儒国有り、人の長さ四尺。
また南に黒歯国・裸国有り、倭より四千余里、船行して一年にして至るべし。
また西南万里に海人有り、身黒く眼白く、裸にして醜し。其の肉美にして、行人或いは射てこれを食らう。

文身国は倭の東北七千余里に在り。人の体に文有りて獣のごとく、其の額の上に三文有り、文直き者は貴く、文小なる者は賤し。
土俗は歓楽して物豊かにして賤し。行客は粮を齎さず。屋宇有りて城郭無し。
国王の居る所は金銀・珍麗を以て飾り、屋を繞りて塹を為し、広さ一丈、水銀を実たし、雨は則ち水銀の上に流る。
市には珍宝を用い、軽罪を犯す者は則ち鞭杖し、死罪を犯す者は則ち猛獣に置きてこれを食わせ、枉(まが)りあれば則ち獣避けてこれを食わず、一宿を経れば則ちこれを赦す。

大漢国は文身国の東五千余里に在り。兵戈無く、攻戦せず。風俗はともに文身国と同じくして言語は異なり。

現代語訳

【概観・産物・風俗】

倭国の先祖の出自および所在については、「北史」に詳しい。

官職には伊支馬(いきま)があり、次を彌馬獲支(みまかし)、次を奴往鞮(なわてい)という。人は禾・稲・紵・麻を種え、蚕桑・機織もする。生姜・桂・橘・椒・蘇を有する。黒雉・真珠・青玉を産する。牛のような獣があり、山鼠(やまねずみ)という。また大きな蛇があってこの獣を飲み込む。蛇の皮は堅くて切ることができず、その上に穴があって開いたり閉じたりし、時おり光を放ち、それが蛇に当たると蛇は死ぬ。産物はおおむね儋耳・朱崖と同じ。気候は温暖で、風俗は淫らでない。男女ともに髻を露わにする。富貴者は錦繍の雑采で帽をつくり、中国の胡公頭に似る。食事には籩豆を用い、死者には棺はあるが槨はなく、土を盛って塚を作る。人の性質はみな酒を好み、暦を知らないが長命者が多く、八、九十歳や百歳に達する者もいる。風俗では女性が多く男性が少ない。貴人は四、五人の妻を持ち、賤しい者でも二、三人は持つ。婦人は淫らでなく嫉妬もしない。盗みがなく、争訟も少ない。法を犯した者は、軽ければ妻子を没収し、重ければ一族を滅ぼす。

【倭の五王記事(宋〜梁)】

晋の安帝の時に倭王・贊が遣使して朝貢した。

宋の武帝の永初二年〔421年〕、詔して「倭の贊の遠誠〔遠くから誠を示すこと〕は甄(あき)らかにするに値する。除授を賜うべし」とした。

文帝の元嘉二年〔425年〕、贊が再び司馬の曹達を遣わして表を奉り、方物を献上した。

贊が死ぬと弟の珍(ちん)が立った。使者を遣わして貢献し、自ら「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称し、正式な除授を求める表を奉った。詔して「安東将軍・倭国王」に除した。珍はさらに倭洧(わゆう)ら十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍等の号に除正するよう求め、詔してともに許可した。

〔元嘉〕二十年〔443年〕、倭国王の濟(さい)が使者を遣わして奉献した。再び「安東将軍・倭国王」とした。

二十八年〔451年〕、「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東将軍」を加え、前と同じとした。あわせて濟が上申した二十三人の職を除した。

濟が死ぬと世子の興(こう)が使者を遣わして貢献した。孝武帝の大明六年〔462年〕、詔して興を「安東将軍・倭国王」に授けた。

興が死ぬと弟の武(ぶ)が立った。自ら「使持節・都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王」と称した。

順帝の昇明二年〔478年〕、使者を遣わして上表した。内容は:「昔より祖先たちは自ら甲冑を帯び、山川を跋渉して安む暇もなかった。東は毛人五十五国を征し、西は衆夷六十六国を服し、海北〔朝鮮半島〕九十五国を平定した。王道は広まり、遠い地にまで土地を広げ、代々〔中国に〕朝宗して歳を違えることがなかった。百済を経て船を整えて〔中国へ向かおうとした〕が、高句麗が道理なく〔倭を〕飲み込もうとした。臣の亡父の濟が大挙せんとした矢先に父兄が亡くなり、功績は積み上げた一塊にも至らなかった。今、兵を練り、父兄の志を申べんとする。自ら開府儀同三司を仮り、その余もそれぞれ仮授して忠節を勧めたい」と。詔して武を「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除した。

斉の建元年間〔479〜482年〕に武を「持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事・鎮東大将軍」に除した。梁の武帝が即位すると、武の号を「征東大将軍」に進めた。

【周辺の異民族・島国】

(梁書【倭条】と同内容のため省略——詳細は梁書【倭条】原文と現代語訳を参照)

語注

語句読み解説
永初二年えいしょにねん
西暦421年
宋の武帝の年号。
司馬曹達しばそうたつ贊が425年に遣わした使節の長。
「司馬」は官職名。
ちん宋書では「珎(ちん)」。
讃の弟で二人目の倭王。
倭洧等十三人わゆうら珍が中国の称号を求めた倭の臣下十三人。
開府儀同三司かいふぎどうさんし三公と同等の礼遇を与えられる最高官職。
三公とは、太尉・司徒・司空を指す。
毛人五十五国もうじんごじゅうごこく東方蛮族「毛人」55国を征した、という武功の誇示。
実態は不明。
海北九十五国かいほくきゅうじゅうごこく朝鮮半島方面の95国を指すとされる。
数字の信憑性は低いとも。
征東大將軍せいとうたいしょうぐん梁の武帝が武に与えた称号。
梁書では「征東将軍」と異なる表記。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 晋安帝期から宋・斉・梁にわたる倭の五王(贊・珍・濟・興・武)の外交記録を一書で通覧できる
  • 武の昇明二年(478年)上表文が収録されており、宋書と内容が一致する
  • 梁の武帝(高祖)が武に「征東大将軍」を授けたことが記される(梁書では「征東将軍」と微妙に異なる)
  • 珍が臣下十三人への将軍号除授を求め、許可されたことが記される

💬 解釈が分かれる箇所

南史の独自性と梁書・宋書との関係

南史の倭国伝は宋書倭国伝をほぼ転載しつつ、梁代までの記録を追加している。
李延寿は宋書・斉書・梁書・陳書などを元に編纂したため、南史の記述が独立した史料価値を持つかどうかについては、個々の記述を先行正史と照合する必要がある。

「梁武帝即位進武号征東大将軍」の信憑性

梁書では「征東将軍」、南史では「征東大将軍」と記す。
大将軍と将軍のどちらが正しいかは確定していない。
南史の記述が梁書を参照しつつ独自に変化した可能性がある。

武の上表文の「七国」と最終除授の「六国」の矛盾

武は「七国(百済を含む)」諸軍事を自称したが、詔による除授は「六国(百済を除く)」とされた。
南史はこの矛盾を記述のまま収録しており、宋書と一致する。
百済が除かれた理由については宋書【倭国伝】の論点を参照。

🔍 仮説段階(要注意)

  • 南史の「其先所出及所在事詳北史」という記述は、当時の編者が「北史と南史は対になるべき」という認識を持っていたことを示す。北史成立(659年)は南史より後であり、この注記は後から追加されたのか。
  • 冒頭の風俗記述(官名・産物・習俗)は梁書と同内容だが微妙な差異がある。これがどちらの先行資料(魏略・後漢書など)を参照した結果か。
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