邪馬台国への道中で、朝鮮半島から日本列島へ向かう最初の寄港地として登場する「対海国(ついかいこく / つかいこく)」。
魏の使者も倭の使者も必ず通過したこの島は、古代東アジアの交易ネットワークにおける最重要のハブでした。
邪馬台国までの旅路で登場する対海国とはどんな国なのか、学界でも異論のない「対馬(つしま)説」を軸に、史料の記述と考古学的な事実を整理します。
- 比定地は「対馬」でほぼ確定
帯方郡から海を渡って最初に到達する絶島であり、邪馬台国の所在地論争に関わらず、現在の長崎県「対馬」であることで見解が一致している。 - 国名の表記揺れ問題
古い史料によって「對海國」と「對馬國」の表記が混在しているが、これは当時の発音(ツシマ)に対する漢字の当て字の違い(誤写)と考えられている。 - 文献と一致する「交易の島」
魏志倭人伝に記された「平地がなく、南北に船を出して交易で生きている」という姿が、実際の対馬の地形や考古学的出土品(塔の首遺跡など)と見事に一致する。
「対海国」か「対馬国」か(国名の謎)
魏志倭人伝をはじめとする史料には、この島(国)の名前が複数登場します。
特に「海」か「馬」かという表記の違いは、古くから議論の的となってきました。
| 史料 | 国名表記 | 備考 |
|---|---|---|
| 魏志倭人伝(紹煕本) | 對海國 | 南宋(12世紀末)の刊本系 |
| 魏志倭人伝(紹興本) | 對馬國 | 南宋(12世紀中頃)の現存最古級の刊本系 |
| 翰苑(魏略の逸文) | 對馬國 | 3世紀前半の記録を唐代に引用 |
| 隋書倭国伝 | 都斯麻國 | 7世紀の史書。「つしま」の発音を示す |
| 古事記 | 津島 | 8世紀初頭の日本の歴史書 |
| 日本書紀 | 對馬洲、對馬嶋、津嶋など | 表記が一定していない※ |
表記揺れの原因は「当て字」?
現在の対馬島には元々、上県(かみつあがた)と下県(しもつあがた)の2国があったとされています。
大化の改新(645年)から大宝律令(701年制定)頃までの律令制度の一環で、この2国をまとめた対馬国が設けられました。
よって邪馬台国当時、本来は島の名前だった”つしま”を、中国(または朝鮮)が国の名前だと誤認した可能性があります。
現在の「対馬」という漢字表記は、古代の「つしま」という読み方に後から充てられた当て字と考えられています。
邪馬台国時代(3世紀)の日本列島にはまだ独自の文字記録文化がありませんでした。
『隋書』に「都斯麻国」とあるように、当時の発音は「ツシマ」に近いものであり、それを書き留めた中国側の書記官や、後世に書き写した人々によって「對海」や「對馬」といった異なる漢字が当てられた(あるいは書き間違えられた)とする見解が一般的です。
そのため、「現代の『対馬』が正しくて『対海』が間違いである」と単純に断定することはできません。

クルエイチ「話し言葉”つしま”に対して、中国が様々な当て字をし、後年に日本が対馬を採用した」という流れが定説です。
魏志倭人伝に記された対海国の姿
1. 行程と大きさ(方可四百余里)
魏志倭人伝によれば、狗邪韓国(朝鮮半島南部)から一海(海峡)を千余里渡って到達する「絶島(孤立した島)」であり、広さは「四百余里」ほどだと記されています。
始度一海千余里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百余里
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
(初めて一海を度る千余里。対海国に至る。その大官は卑狗といい、副は卑奴母離という。居る所は絶島。広さは四百余里ばかり。)
現在の対馬は、南北に細長い形状の対馬島を主島として、100以上の小島を伴って形成されています。
面積が約700㎢ながら、リアス式海岸で入り組んだ地形をしており海岸線の総延長が約915㎞にもなります。
南北約82km・東西約18kmの細長い島です。
距離の解釈は何時代?
「四百余里」の解釈は、1里の長さをどう設定するか(短里か長里か、何時代の基準か)によって変わります。
また、面積なのか領域的な距離の解釈なのかでも意見が割れます。


領域、つまり島の周囲をひと回りする距離として解釈した場合、おおむね実際の規模に対応するとする研究もあります。
直線的に一周すると、82+18+82+18=約200(km)になります。
計算しやすく魏時代と隋時代の間を取って1里=500mとして計算してみると、500(m)×400(里)=200,000(m)=200(km)となり、ちょうど対馬の周旋と一致します。
| 時代 | 周~前漢 | 新・後漢 | 魏 | 隋 | 唐 |
|---|---|---|---|---|---|
| 分(cm) | – | 0.2304 | 0.2412 | 0.2951 | 0.311 |
| 寸(cm) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
| 尺(cm) | 22.5 | 23.04 | 24.12 | 29.51 | 31.1 |
| 丈(m) | 2.25 | 2.304 | 2.412 | 2.951 | 3.11 |
| 歩(m) | 1.35 | 6尺 1.3824 | 6尺 1.4472 | 6尺 1.7706 | 5尺 1.555 |
| 里(m) | 405 | 300歩 414.72 | 300歩 434.16 | 300歩 531.18 | 360歩 559.8 |



短里か長里かだけでなく、時代による違いも考慮する必要があります!
太宰府から対馬まで、10世紀では海路4日
905~927年に作られた延喜式(律令の施行細則をまとめた法典)によれば、対馬は大宰府からの海路行程は4日となっています。
對馬島 海路行程四日
『延喜式』第24巻
延喜式・諸国駅伝馬条と呼ばれている部分には、新任国司の通過路線上に伝馬を置く郡が列挙されています。
陸路に関しては馬に乗った場合の日数が記述されている一方で、海路についてはどういった船を使ったのか等々、基準が不明瞭です。
邪馬台国の時代は西暦200年代であり、延喜式の時代からは600~700年ほど古い時代です。
延喜式の内容と比べると、邪馬台国の時代は道路や船が整備されていないなど条件が悪かったことが想像できます。
対馬から邪馬台国までの道程の研究材料になり得る情報ではあるものの、時代(条件)が異なりすぎるため史料としては価値が薄いとされます。
2. 官名(卑狗と卑奴母離)
対海国の長官は「卑狗(ひこ)」、副官は「卑奴母離(ひなもり)」と呼ばれていました。
『翰苑』が引用する『魏略』の逸文では、少し短く「卑拘」「卑奴」と記されています。
「卑奴母離」という副官名は、この先の一大國・奴國・不弥國にも共通して登場するため、個人の名前ではなく「国境の守備隊長」のような特定の役職名であった可能性が高いと指摘されています。


3. 生活と文化(南北市糴)
魏志倭人伝の対海国の描写で最も印象的なのが、その厳しい自然環境と、逞しい交易の姿です。
土地山険多深林 道路如禽鹿径 有千余戸 無良田食海物自活 乗船南北巿糴
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
(土地は山が険しく深林が多い。道路は鳥や鹿が通る獣道のようである。千余戸がある。良い田がなく、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴[してき=米などの買い入れ・交易]している。)
現在の対馬も、島の約9割を山林が占め、平野部が極端に少ない地形です。
「農業だけで食べていくのは難しく、海産物を獲り、朝鮮半島(北)と日本列島(南)の間を船で行き来して物資を交易している」という3世紀の記録は、現在の対馬の地理的・歴史的特性と完璧に一致します。
考古学的情報(交易拠点としての対馬)
この「南北市糴」という文献の記録は、考古学的な発掘調査によっても見事に裏付けられています。
対馬における弥生時代〜古墳時代の遺跡からは、北部九州系の土器と朝鮮半島系の土器が混在して出土します。
特に有名なのが、島の中部にある「塔の首(とうのくび)遺跡」です。
ここからは、弥生時代後期〜終末期の箱式石棺墓から、広形銅矛や銅剣、ガラス製の腕輪など、非常に豊かな副葬品が出土しました。
これは、対海国の有力者たちが、単なる漁労だけでなく、朝鮮半島と日本列島を結ぶ「海峡交易の仲介者(ハブ)」として大きな富と権力を蓄えていたことを示す強力な物証です。
結論(比定地)
対海国の比定地は、現在の長崎県「対馬(つしま)」とする説で学界でもほぼ完全に一致しています。
帯方郡(現在の韓国ソウル付近)から南下し、海を渡って最初に到達する絶島として、地理的条件を満たす他の候補地は存在しません。
邪馬台国が畿内にあるとする説(畿内説)でも、九州にあるとする説(九州説)でも、この「対海国=対馬」という前提は共有された上で道程の議論が進められます。
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