新唐書【日本伝】原文と現代語訳

新唐書巻220列伝第145東夷「日本伝」の原文・書き下し文・現代語訳。「日本は古の倭奴なり」という認識の整理や、遣唐使が伝えた「天御中主」から始まる王統譜(天皇の系譜)を中国正史として初めて収録する。

『新唐書』巻220「東夷・日本」を収録する。『旧唐書』の混乱を整理し「日本は古の倭奴である」と断定した上で、日本から伝わった神代からの王統譜や、国号変更の理由を記載している。

目次

史料データ

項目内容
書名新唐書(しんとうしょ)
巻・章巻220 列伝第145 東夷 日本
著者欧陽脩(おうようしゅう)・宋祁(そうき)ら
成立年1060年(北宋・嘉祐5年)
分類中国正史・二十四史・紀伝体・断代史
底本ウィキソース(zh.wikisource.org)

原文と現代語訳

日本古倭奴也去京師萬四千里直新羅東南在海中島而居東西五月行南北三月行
國無城郭以木爲柵草爲茨左右小島五十餘皆自附
其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二代皆以尊爲號居筑紫城
彦瀲子神武立更以天皇爲號徙治大和州
次曰綏靖次安寧次懿棟次孝昭次天安次孝靈次孝元次開化次崇神次垂仁次景行次成務次仲哀
仲哀死以開化曾孫女神功爲王
次應神次仁德次履中次反正次允恭次安康次雄略次清寧次顯宗次仁賢次武烈次繼體次安閑次宣化次欽明

(中略・風俗記事などは隋書・旧唐書とほぼ同内容)

咸亨元年遣使賀平高麗後稍習夏音惡倭名更號日本
使者自言國近日所出以爲名
或云日本乃小國爲倭所并故冒其號
使者不以情故疑焉

『新唐書』巻220 列伝第145 東夷 日本

日本は、古の倭奴(わぬ)なり。京師を去ること一万四千里、新羅の東南に直(あた)り、海中に在り、島にして居す。東西は五月の行、南北は三月の行。
国に城郭なく、木を以て柵と為し、草を以て茨(かやぶき)と為す。左右の小島五十余、みな自ら附す。
其の王は姓を阿毎氏といい、自ら言う、「初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二代、みな尊(みこと)を以て号と為し、筑紫城に居す。
彦瀲の子・神武立ち、更めて天皇を以て号と為し、徙(うつ)りて大和州を治む。
次は綏靖と曰い、次は安寧、次は懿棟(いとく)、次は孝昭、次は天安(こうあん)、次は孝霊、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀。
仲哀死して、開化の曾孫女・神功を以て王と為す。
次は応神、次は仁徳、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顕宗、次は仁賢、次は武烈、次は継体、次は安閑、次は宣化、次は欽明」と。

(中略)

咸亨元年(670年)、使を遣わして高麗を平らげたるを賀す。後、稍(やや)夏音(かおん)を習い、倭の名を悪(にく)み、更めて日本と号す。
使者自ら言う、「国、日の出づる所に近きを以て名と為す」と。
或いは云う、「日本は乃ち小国にして倭の并(あわ)せるところと為り、故に其の号を冒す」と。
使者、情を以てせず、故にこれを疑う。

語注

語句読み解説
日本古倭奴也にほんはいにしえのわぬなり旧唐書』の「日本は倭国の別種」という曖昧な記述を整理。
「倭が名前を日本に変えたのだ」と断定した表現。
天御中主あめのみなかぬし日本神話における天地開闢の最初の神。
彦瀲ひこなぎさ鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)。
神武天皇の父。
筑紫城つくしのしろ神々が九州にいたという神話。
これを「筑紫城にいた」と中国風に理解した表現。
大和州やまとしゅう神武東征によって大和に都を移したことを示す。
咸亨元年かんこうがんねん670年(唐の高宗の時代)。
白村江の戦い(663年)の直後に当たる。
日本が唐との関係修復を図った遣使。
夏音かおん「夏」は中華(中国)のこと。
中国の言葉や文化・教養を指す。
冒其號そのごうをおかす倭が日本の名前を勝手に名乗った、という解釈。
『旧唐書』の「日本が倭を併合した」という記述を修正・逆転。

この原文に関する論点

📌 確認できる事実

  • 『新唐書』は『旧唐書』の「倭国・日本国並立」を整理し、「日本伝」一本にまとめた
  • 8世紀以降の日本の遣唐使が、『古事記』『日本書紀』に基づく「神代からの天皇の系譜(天御中主〜神武〜)」を唐側に正式に伝達していたことが記録されている
  • 日向三代などの神話時代を「筑紫城にいた」、神武東征を「大和州に移った」と中国側に分かりやすく翻訳して伝えている
  • 白村江の戦いの直後(670年)に日本が遣使したことが記録されている

💬 解釈が分かれる箇所

「或云日本乃小國爲倭所并故冒其號」の真意

『旧唐書』では「日本(という小国)が倭国を併合した」と記されていましたが、『新唐書』では逆に「倭国が日本(という小国)を併合し、その名前を名乗った」と記されています。
これは編纂者である欧陽脩らが、「大国である倭が小国に飲み込まれるのは不自然だ」と論理的に考えて旧唐書の記述を反転させたとする説が有力です。
いずれにせよ、中国側が「日本と倭の関係」について最後まで完全には納得していなかったことを示しています。

神功皇后の王位

『新唐書』は、神功皇后を歴代天皇の系譜の中で「王とした(為王)」と明確に位置づけています(※日本の皇室譜では天皇には数えられません)。中国側(または説明した遣唐使)が、魏志倭人伝の「卑弥呼」や「台与」という女王の存在と神功皇后を結びつけて説明しやすくした可能性が指摘されます。

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