『続日本紀(しょくにほんぎ)』から、中国史書(旧唐書など)に記された「日本」国号の成立と外交を裏付ける遣唐使・粟田真人(あわたのまひと)の帰国記事と、「倭(やまと)」という漢字を良い意味の「和(やまと)」へと正式に変更した過程を示す天平時代の記録を収録する。
目次
史料データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 書名 | 続日本紀(しょくにほんぎ) |
| 巻・章 | 巻第3(慶雲元年条) / 巻第20(天平宝字元年条) |
| 著者 | 菅野真道(すがののまみち)ら |
| 成立年 | 797年(延暦16年) |
| 分類 | 日本正史・六国史の第二(漢文・編年体) |
| 底本 | 国史大系版・ウィキソースなど |
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続日本紀とは?
菅野真道らが797年に完成させた日本の正史(六国史の第二)『続日本紀』の解説。遣唐使の記録や、「大倭」から「大和」への国号表記の変更過程を記し、倭国から日本国へのアイデンティティ転換を裏付ける重要史料。
原文と現代語訳
慶雲元年(704年):遣唐使の帰国と唐での評価
(慶雲元年七月)甲寅、遣唐執節使正四位下粟田朝臣眞人等至自唐國。
『続日本紀』巻第3(慶雲元年条)
初眞人至唐、唐人謂眞人曰「素聞、海東有大日本國。其國神明、重敬禮義。今觀使臣、儀容大雅。豈不信乎。」
(慶雲元年七月)甲寅(きのえとら)、遣唐執節使(けんとうしっせつし)・正四位下・粟田朝臣真人(あわたのあそんまひと)等、唐国より至る。
初め真人唐に至るや、唐人真人に謂ひて曰く「素より聞く、海東に大日本国あり。其の国神明にして、礼義を重敬すと。今使臣を観るに、儀容大雅なり。豈に信(まこと)ならずや」と。
天平宝字元年(757年):「大和」表記の公認
(天平寶字元年三月)戊午。詔曰。
『続日本紀』巻第20(天平宝字元年条)
(中略)
又大倭國、宜改倭字爲和。
(天平宝字元年三月)戊午。詔して曰く。
(中略)
又、大倭国は、宜しく倭の字を改めて和と為すべし。
語注
| 語句 | 読み | 解説 |
|---|---|---|
| 粟田朝臣真人 | あわたのあそんまひと | 大宝元年(701年)に唐へ派遣された遣唐使の大使。 『旧唐書』『新唐書』に「朝臣真人」として特筆された。 容姿温雅と称賛された人物。 彼が「日本」国号を正式に唐に認めさせたとされる。 |
| 執節使 | しっせつし | 天皇の代理としての権限を示す「節(しるし)」を持った全権大使。 |
| 神明・礼義 | しんめい・れいぎ | 唐側が日本を「礼儀正しく優れた国」と評価した言葉。 白村江の戦い以来の緊張関係を解き、文化国としてアピールした成果。 |
この原文に関する論点
📌 確認できる事実
- 704年に帰国した粟田真人が、唐において「大日本国」の使節として非常に高く評価(儀容大雅)されていたことが日本側の記録にも残っている
- 天平宝字元年(757年)の詔によって、「大倭国」の表記を「大和国」に改めることが国家として公式に命じられた
💬 解釈が分かれる箇所
- 唐の「大日本国」認識のタイミング
-
粟田真人が到着した際、唐人が「素より聞く、海東に大日本国あり」と言ったとされています。
これが真人の自慢話(旧唐書のいう『多く自ら矜夸す』)なのか、あるいは実際に701年以前から唐側に「日本」という呼称が伝わっていた(天智・天武朝からの働きかけがあった)のかについては、研究者の間でも意見が分かれます。あわせて読みたい
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-
757年の詔で明確に改字が命じられていますが、江戸時代の国学者・本居宣長は『古事類苑』に収録された『国号考』の中で、これより少し前の天平勝宝年間(750年代前半)からすでに公文書で「和」が使われ始めていたことを指摘しています。
757年の詔は、すでに行われていた慣行を正式な法として追認したものと考えられています。あわせて読みたい
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🔍 未解決の仮説・問い
- 「ヤマト」という音に対して、もともと「倭」という字を当てたのはいつ、誰なのか。中国側からの呼称をそのまま受け入れたのか、それとも別の理由があったのか。この文字に対する自意識の変化が、「邪馬台国(倭国)」から「日本国」へのアイデンティティの変遷を象徴しています。



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